上田城の戦い
〜真田昌幸の関ヶ原〜

真田昌幸は一旦家康に従って会津征伐へと向かいますが、三成挙兵を聞き西軍加担を決意、上田城に戻ります。そして中山道を進む秀忠軍を策を弄して足止めさせますが、この模様を『改正三河後風土記』から引用してご紹介します。


犬伏の別れ

 今度は目を東へ向けてみよう。戦国期の謀将として名高い真田昌幸は、武田信玄の重臣・幸隆の三男として天文十六(1547)年に生まれた。はじめ武藤家を嗣いで武藤喜兵衛と名乗ったが、天正三(1575)年の長篠合戦で二人の兄信綱・昌輝が戦死したため、真田家に戻って家督を嗣いだ人物である。武田家滅亡後は織田・上杉・北条・徳川の大勢力に挟まれて対応に苦慮するが、まさにあちらに付いたかと思うとこちらに付くといった変わり身で何とか戦国の荒波を泳ぎ切り、最終的には秀吉の麾下となって小領主ながらも独立していった。

 さて、関ヶ原に際しては、昌幸は初め家康に従って会津へと向かっていた。そして七月二十一日のこと、下野犬伏に着陣したとき彼の陣に密使が駆け込んできたのである。その使は彼と仲が良かった石田三成から発せられたもので、西軍の挙兵を報じて昌幸の加担を求めてきたものであった。昌幸はそれならばどうしてもっと早く報せて来ぬかと内心少々不愉快に思ったが、これは非常に重大なことである。早速信之・幸村を交えて談合を交えた。
 信之の妻は徳川家の四天王・本多忠勝の娘である。彼には家康の強さがよく解っており、さらにここまで来て引き返しては不義の誹りを受けると極力反対する。しかし昌幸の娘は三成の義兄宇田頼次に嫁いでおり、加えて幸村の妻は大谷吉継の娘である。結局昌幸・幸村父子は三成を見捨てるわけにはいかず、信之は徳川に背くことなどは出来なかった。こうして父子が東西両軍に分かれることとなったのだが、これを世に「犬伏の別れ」という。

 昌幸・幸村は急ぎ上田へと戻るが、途中沼田城で一泊する予定でいた。しかし父子が東西に分かれたことは既に沼田城に報されており、留守を守る信之の妻小松殿に頑として入城を拒否される。このとき、昌幸は「せめて孫の顔だけは見せてくれ」と小松殿に頼み、城壁越しに孫の顔を見て上田へ戻っていったというエピソードが伝えられている。


昌幸、秀忠を挑発

 さて、昌幸父子と戦闘を交えることになる秀忠は八月二十四日の朝、兄の秀康の見送りを受けて宇都宮を出陣した。本多正信・榊原康政らがこれに従い、率いる兵は三万八千七十余という大軍である。二十八日、秀忠軍が上野松枝に差し掛かったとき、家康が九月一日に江戸を出陣するとの報せを受けた。秀忠は信濃小諸に軍を進め、ここから上田城の真田昌幸へ使者を発して「その方は三成の奸計に乗せられて籠城しているが、関東諸将は既に岐阜を落とし、内府は東海道を、我は中山道を軍を進めている。石田等が捕縛されることは時間の問題であり、その方も前非を改めて帰順し、子孫繁栄を考えよ」と伝えた。これに対して昌幸は、「それがしはこの度、大坂方の大老奉行衆が秀頼公の御為に義兵を挙げたればこそお味方した。一旦それに従った以上はたとえ味方が危機に瀕していようとも、義を捨て道を踏み外して心を翻すことなど出来申さぬ。これを憎み憤り給うならば、手始めに当城をお攻めあれ」と応える。

 秀忠は言い返す。「昌幸が申すのは義に似て義ではない。なぜならこの度の件は、まだ幼い秀頼公がわきまえておられるはずがない。これは全く大老奉行どもの私心から企てられた邪謀であり、天下の人々は皆知っている。だからこそ太閤恩顧の者共が多く内府に従い、義を以て凶徒を退治しようとしているのである。その方も早くこの道理をわきまえて天命に応じない上は(東軍に付けとの意)、伊豆守には切腹、城は即日攻め落とす所存である」
 昌幸はまたこれに応じ、「故太閤殿下の恩を蒙ったにもかかわらず、秀頼公を見捨てて内府公に味方する面々は、それぞれの下心があってのこと。それがしはたとえ嫡子伊豆守が切腹させられ城攻めに遭おうとも、君臣の道は踏み外せぬ。昌幸が義か不義かは天下後世の論に任せるべきである。道中のついでに当城を攻められること、どうぞご随意に」とやり返した。

 秀忠はこの返事に怒り、諸将を集めて軍議を開いた結果、すぐに上田城を攻め落として美濃へ向かうことに一決した。


上田城の戦い

 このとき秀忠勢は近所の民家に分散して宿泊していたが、榊原康政は「真田は軍謀老練、早速今夜にも夜討ちを仕掛けるかもしれず、油断なきように」と提案、諸将は野陣を張り篝火をき、警戒を強めた。実際、真田幸村が夜討ちを仕掛けようと出陣していたが、警戒が厳重なので引き返したとある。
 秀忠勢は九月六日、小諸から染屋平に出て上田城に対峙した。その時昌幸父子も四、五十騎ばかりで物見に出ていたのを見て秀忠は依田信守に命じて鉄炮を撃たせるが、昌幸は何喰わぬ顔で引き返す。そして城外の神奈川辺に尼が淵というちょっとした要害があり、伏兵を置いているのではないかと牧野勢が調べたところ、案の定伏兵が急に現れて襲いかかってきた。

 牧野隊が戦うのを見た大久保忠隣・本多忠政隊も横合いから攻め掛かり、ここに戦闘が展開された。兵数に勝る秀忠勢は、勢いに乗って真田勢を城際まで追い詰めたと見えた瞬間、門を開いて真田幸村が突撃してきた。同時に虚空蔵山の林でおびただしく鬨の声が上がり、槍先を揃えて袋の鼠となって狼狽する秀忠勢を挟撃する。こうして寄せ手が混乱したところへ、とどめは真田昌幸が八十騎を率いて出撃、秀忠勢を散々に蹴散らした。結局秀忠勢は、ものの見事に「軍謀老練」の真田の術中にまんまとはめられたのである。
 昌幸は程なく兵をまとめ、何と手鼓を打って「高砂」を謡い出した。榊原康政はこの様を見て激怒、手勢二千を率いて牧野父子とともに昌幸を追いかけたため、さすがの昌幸も高砂を最後までは謡えずに引き返したという。
 この際、秀忠勢の朝倉宣政・太田吉正・鎮目惟明・辻久正・戸田重利・中山照守・御子神典膳の七人の活躍が「上田七本槍」または「真田表七本槍」と称されて讃えられているが、現実には「軍令違反」の上に敗軍でもあり、実際彼らは後に譴責を受けている。余談だが、七本槍のうちの一人・御子神典膳とは、後に秀忠の剣術指南役となる一刀流の達人・小野次郎右衛門忠明のことである。
 秀忠の旗本にあった本多正信は「軍令違反である。見苦しいので早々に引き上げよ」と命じ、康政らも兵を収めた。正信は諸隊が軽率に戦ったことを怒り、大久保隊の旗奉行杉浦惣左衛門を切腹させた。牧野隊も責任を問われたが、牧野は「我等の命令により家人らは戦ったのである。物頭に責任はない」といって旗奉行・贄掃部(にえかもん)を逃がしてやったという。

 秀忠勢は城を遠巻きにして善後策を協議する。戸田一西は力攻めを献策し、一旦はそれに決まりかける。しかし正信が強硬に反対し、結局城の押さえに兵を置いて美濃へと急ぐことに決し、上田を後にした。これが九月十日のことである。しかも正信は大事をとって本道を避け、間道を経て十三日に諏訪へ到着する。榊原康政ただ一人は正信の方針に怒り、「真田など如何ほどのことがあろう。攻めてくるなら踏みつぶすまで」と、本道を進んでいったという。

 もうこの時点で同勢の関ヶ原への十五日参陣は、既に不可能となっていた。


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