志摩鳥羽城主九鬼嘉隆は、子の守隆と袂を分かち西軍につきました。やがて東軍の勝利が確定するや、守隆は父の助命に奔走します。しかし、嘉隆を待っていたのは、あまりにも無情な結末でした。 |
海賊大将・九鬼嘉隆 彼は天文十二(1543)年、志摩国田城(たしろ)城主九鬼定隆の次男として生まれた。兄浄隆のあとを継いだ甥澄隆とともに志摩七島衆と戦うが敗れ、朝熊(あさま)山へ逃れる。このとき信長に通じ、その助けを借りて三年後に志摩の海上権を握っていた「志摩地頭十三人衆」と戦ってこれを制したという。ただしこれには異説もあり、永禄三(1560)年に志摩磯部の地頭となった嘉隆は伊勢国司北畠氏に接近し、その威を利用して浦・安楽島(あらしま)を制圧、小浜氏を追い出して志摩を統一した。そして北畠氏と年貢をめぐって諍いを起こし、やがて織田信長の傘下へ入ったとする説もある。要は現時点ではこの辺りのいきさつは、どうもはっきりしていないようだ。 さて彼は信長麾下の海将として長島一揆討滅戦の際に安宅船十四隻を率いて活躍、また石山本願寺との第二次木津川海戦において毛利水軍をも粉砕するなどの活躍を見せるが、この辺は当稿とは直接関係ないので割愛させていただく。嘉隆はこれらの功により、信長傘下の将として伊勢志摩両国内に三万五千石を領する大名となり、鳥羽にその本拠を据えることになる。写真は鳥羽城本丸跡で、反対側の眼下には海が望める。 余談だが、鳥羽は良いところである。海の好きな私はもう七、八回鳥羽を訪れたが、景色は良いし釣りもできるし、鳥羽水族館やミキモト真珠島など観光施設も充実し、しかも伊勢エビに代表される新鮮な海の料理は絶品である。 話を戻す。さて、嘉隆は信長没後は秀吉に仕え、九州征伐や小田原攻め・文禄の役に海軍の将として活躍したが、慶長の役の際に渡鮮軍の人選から外れたことを機に隠退、家督を子の守隆に譲った。しかし彼の悲劇はこれから始まる。その悲劇とは、いわゆる「関ヶ原」である。 鳥羽城の戦い この稿でもう一方の主役となる嘉隆の子・長門守守隆は、天正元(1573)年に九鬼家の嫡男としてここ鳥羽に生まれた。幼名を孫次郎といい、友隆・光隆のち守隆を名乗る。秀吉の歿後は家康に仕え、この関ヶ原の際には家康に従って上杉討伐へ従軍していた。さて、嘉隆はこの頃家康とは不仲であったというか、家康に含むところがあった。それは伊勢田丸・岩出城主稲葉道通が木材を京畿に運搬する際、嘉隆の所領を通過するため「税」を納めていたのだが、この前年(1599年)に家康が道通に対してそれを免じたのである。この他にも嘉隆と道通はたびたび諍いを起こしていたようで、まさに一触即発の状態であったのである。 この事情を知る三成は、嘉隆になんと伊賀・伊勢・紀伊三国を与えるとの好条件で加担を迫った。嘉隆は老齢でもあり隠居の身で兵士も持たなかったため、初めはこれを断った。しかし三成は嘉隆の女婿である紀伊新宮城主・堀内氏善を使者として派遣、繰り返し加担を要請したため、遂に彼は意を決して西軍に身を投じたのである。 西軍加担を決めた嘉隆は直ちに行動を起こし、守隆の留守兵を追い出してあっという間に鳥羽城を占拠した。写真は鳥羽城裏に残る石垣である。彼は城の守りを氏善に任せて岩出城攻めへと向かったが、これが上手くいかなかった。 一方、父の西軍加担を知った守隆は驚き、下野小山から志摩へ戻って城の明け渡しを何度も使者をもって申し入れたが、嘉隆に拒絶された。やむなく守隆は国府村から安乗(あのり)に陣を移し、ここに父子が戦うことになったのである。守隆は父とは戦いたくなかったが、家康から目付として石丸雲哲(池田家臣)が同行していることもあり、戦わないわけには行かず困っていた。そこへお誂え向きの出来事が起こる。 西軍方の桑名城主氏家行広が船団を率いて航行してきたため、彼はこれを撃滅し、得た首級を西上中の家康のもとへ送り、感状を賜った。これが九月七日のことである。しかし結局は父を放置するわけにはいかず、守隆は九百の兵のうち二百を割いて鳥羽城へ向かわせた。迎え撃つ嘉隆らも市街戦で町を焼くに忍びず、田城へと陣を移した。そしてここで父子の戦闘が展開された。 嘉隆は空砲で応戦したが、守隆は実弾射撃で迫る。これは目付がいるのでやむを得なかったろう。そして機を見て氏善勢が守隆に襲いかかり激戦となるがやがて撃退され、氏善は五ヶ所方面に落ちていった。そして、そこへ関ヶ原の西軍敗報が届く。嘉隆は直ちに一党に日本丸を用意させ紀州へと脱出したが、ここで思惑違いが起きる。一旦避難してと考えた新宮城は既に落ち、氏善も加藤清正預けとなっていたのである。このため嘉隆は再び志摩へと戻り、娘の嫁ぎ先である和具の青山豊前宅へ潜伏した。 守隆は父が紀州へ脱出するとすぐ鳥羽城を回復し、同時に家康に助命嘆願を行った。しかし家康は許さず、嘉隆探索を厳命する。窮した守隆は、先に与えられた南勢五郡の返上と引き替えに嘉隆の助命をと、正になりふり構わず哀訴した。やがて福島正則・池田輝政らを介しての必死の嘆願が実り、守隆はついに家康から父の赦免状を賜ったのである。彼は大喜びした。天にも昇る気持ちであったろう。そしてこれを父に報せるべく急使を発した。そして、その使者が伊勢の明星茶屋に差し掛かったとき・・・。 使者はここで何かを携えてやって来た青山豊前と出会った。その何かとは・・・なんと、父嘉隆の首級だったのである。嘉隆は青山宅に潜伏していたが、ある日奸臣豊田五郎右衛門が訪れ、何を企んだのか助命は無理だろうと嘉隆に告げ、暗に自刃をほのめかした。観念していた嘉隆は青山を伴い、答志島和具の潮音寺に入ったのち洞仙庵へ移り、十月十二日にそこで自刃してしまったのである。介錯は青山豊前、嘉隆享年五十九歳であった。右の写真は鳥羽市鳥羽の常安寺にある嘉隆・守隆父子の墓である。 これを聞いた守隆は悲嘆やるかたなく、自刃を勧めた豊田を詰問するが、彼は巧みに言い逃れる。しかし次第に豊田の悪逆の行為が明らかとなったため守隆は激怒し、豊田を処刑した。戦いも終わり、本来なら父子相まみえるはずだったのであるが、守隆の嘆きと怒りは如何ばかりであったろう。 豊田は竹鋸引きの極刑に処されたという。 |