椿井氏と島氏

島氏と争った記録が見られ、一時期の『大乗院寺社雑事記』に度々登場する山城国人・椿井氏。しかし同氏は元々平群谷に居住していたようです。ここでは椿井氏が本拠地を平群谷から山城に移した経緯を、推論を交えてご紹介します。


山城椿井氏と大和椿井氏

 戦国期以前の平群谷における島氏の事績を述べる上で、椿井氏は筒井氏・曾歩々々氏らとともに避けては通れない氏族のうちの一つである。平群谷南東部に椿井という集落(現平群町椿井)があり、おそらくここを本拠としていたものと推測されるが、『平群町史』に椿井氏の項は見られない。
 太田亮氏の『姓氏家系大事典』(角川書店刊)によると、椿井氏には山城椿井氏と大和椿井氏の二系統があり、まず山城椿井氏の項では

「寛永系図に『鎌足の後裔某・武官に任じ、山城國相楽郡椿井の庄を賜ふ』と云ひ、寛政の呈譜には『頼経将軍の三男中納言氏房、大和國平群郡椿井に住し、椿井氏を稱す。其の四代左少将政賢、尊氏に仕へ、其の孫右京太夫政信・義政に仕ふ。後相楽郡薗部庄を賜ひ、其の地を椿井庄と改む』と云ふ。鶴見系図、盛俊の譜に『山城國和束杣郷に退き、椿井播磨守澄政の客となる』と」

 と紹介されており、大和椿井氏の項には、

「平群郡椿井より起る。文明年間、椿井越前入道道懐あり、筒井と争ひ、嶋左内に滅されしが如し。越系図引用官務録に『文明十八年十二月、筒井と椿井と争論云々、椿井方には、巨勢兵庫云々等戦死』と。麾下の将には木澤因幡守、立野伯耆守、郡山越中守、巨勢兵庫、大住民部、荒木遠江守等あり」

 とある。一方、『大和志料』の椿井城の項に上記『巨勢系図官務録』がもう少し詳しく引用されており、

「文明十八年丙午十二月筒井ト椿井ト争論、同二十六日島左門ト相戦フナリ。同二十八日椿井越前入道懐専討死アル、年九十二歳ナリ。同二十九日木澤因幡守、立野伯耆守、郡山越中守等ノ椿井ノ麾下ト島左門ト相戦ヒ、是ヲ討捕ル。椿井方ニハ巨勢兵庫、大住民部、荒木遠江守ノ一味衆三人戦死アルナリ」(句読点は後補)

と見える。つまり、筒井氏と椿井氏が争い、椿井懐専が島左門と戦い十二月二十八日に戦死するが、翌日に木澤因幡守ら椿井氏麾下の面々が島左門を討ち取ったか捕らえたということである。ただ、ここに記されている椿井越前入道懐専なる人物は山城椿井氏と思われ、この頃には椿井氏の本家は平群谷を去り、山城椿井郷へ移っていたものと推定される。後にも述べるが、この『巨勢系図官務録』に引用されている「島左門」との戦いは大和で行われたものではなく、河内における戦いなのである。


椿井氏の起こり

椿井氏の由来書  平群谷における椿井氏の確実な記録は存在しないが、平群町椿井の春日神社には椿井氏の子孫で平群氏八十二代正嫡を名乗っておられる大阪市在住の椿井一見氏(故人)奉納の「平群氏春日神社沿革記」なる扁額が掛けられているので、それをご紹介したい(写真)。また画像クリックで記載文言のクローズアップ画像へとリンクしてあるのでご参考までに。
 この由来書によると、時の将軍藤原頼経の三男中納言氏房が平群谷に移り住み椿井氏を称したのがその始まりとされ、やがて弘安五(1282)年には大納言に昇り、伊賀・大和・河内・阿波四ヶ国の太守に任ぜられ椿井城を築く。その後、政里の代に奈良探題職に任ぜられて奈良吉野町に移り、さらに政信の代には山城一円を賜って園部(薗部)に移り、郷名を椿井と改めて居城を構えたということである。
 文言に見える「奈良吉野町」とは現在の奈良市椿井町一帯と思われ、ここは14世紀中頃から活躍した仏師集団・南都椿井仏師の活動の本拠(工房が置かれていた)として知られている。はっきりと断定することは出来ないが、南都椿井仏師と大和椿井氏との間に何らかの関係があった可能性も十分考えられる。

椿井氏系図  史料としての信憑性はやや低いが、これらは椿井一見氏が生前に平群町に寄贈された『椿井氏系図』に詳しく記載されている。右の画像でおわかり頂けるかと思うが、同系図によると、先の『巨勢系図官務録』では文明十八年十二月に島左門と戦い、同月二十八日討死したとされる越前守政里(懐専)の項を例に取ると、
「補任奈良探題職吉野町住館改椿井 文明十七年十二月廿八日討死 九十二歳 勝壽院殿淨玄懐専大徳」
と記載されており、没年に一年の差がある。他の記述にも一部に相違は見られるが、大筋では『姓氏家系大事典』の記述にほぼ合致しているようである。懐専の没日時については他の信頼できる記録に

「一 伝聞、椿井加賀公懐専、於衛門佐方被切腹云々、今日事也、円城坊之舎兄也、今度山城之事故歟、今日円城坊俄ニ河内ヘ下向云々」(『大乗院寺社雑事記』文明十七年十二月廿九日条)
「一 於河州、椿井加賀懐専被生涯云々、昨日由申、子細何事ソヤ」(『政覚大僧正記』文明十七年十二月廿九日条)

 とあることから、討死(切腹)したとするならば文明十七年のことであろう。ちなみに「(右)衛門佐」とは畠山義就のことである。ただ、『椿井氏系図』には懐専政里の父・越前守政賢の項に「加賀入道」とあり、懐専政里が「加賀公」を称した記載は見あたらない。さらに、四年後の長享三(1489)年には

「一、椿井与狭川公事出来、古市以下為仲人罷出了、無殊事無為」(『大乗院寺社雑事記』長享三年五月廿一日条)

 という記録があり、『山城町史』ではこの「椿井」に懐専の注釈が付けられていることから少々混乱する。これが事実なら懐専は生存しており、『大乗院寺社雑事記』等の文明十七年十二月廿九日条の記載は誤聞であるか、または椿井氏系図上で人物が混同されている可能性があり、はっきりとは断定できない。


椿井氏と島氏

山城椿井郷  人物の特定はともかく、先にも書いた通り、文明年間以降の椿井氏の本拠は平群ではなく、南山城椿井郷(現京都府相楽郡山城町椿井=写真)のように思われる。つまり、仮に当時椿井氏が平群谷の一部を領していたにせよ、宗家は南山城にあり、そちらから平群領の支配を行っていた公算が大きい。
 椿井氏は興福寺大乗院方の衆徒である。『椿井氏系図』によると、懐専政里の祖父で「平群郡半円と添上郡七ヶ荘」を領したとされる越前守房政が、元弘元(1331)年の笠置山合戦に出陣した際に「椿井官務侍従入道」と称したという。元弘元年と言えば島氏がようやく記録に現れた頃で、当時椿井氏が官務(符)衆徒に任ぜられていたとすれば、家格的にも実力的にも椿井氏の方が勝っていたことは間違いない。

 系図の記載が正しければ、椿井氏が平群谷を去って南都吉野町へ移ったのは、越前守政賢が没した永享九(1437)年前後のことと思われ、その後程なく山城へ移ったのであろう。ただ、『嘉元記』文和四(1355)年十二月三日条に「南都仏師椿井」の文言が既に見られるため、それ以前に南都(奈良市)には椿井氏の一族が居住していたことも考えられる。また『大乗院寺社雑事記』長禄三(1459)年四月二十三日条に「椿井郷」の文言が見られるので(仏師宅が火災に遭っている)、この頃までには地名としての「椿井」が存在していたものと思われる。
 それはともあれ、先の稿で述べた通り、当時の島氏の当主「志まの入道」が応永二十七(1420)年に福貴寺・大内庄の下司職に任じられていたことを考えると、このあたりで椿井氏と島氏の勢力が逆転したものと思われる。椿井氏の官位などから見て、在地領主から勢力の伸張を目論んで衆徒・国民となる土豪が乱立し始めた平群谷を含む大和の情勢は、官位のみが高い「貴族的武士」である椿井氏には、もはや荷が重過ぎたのであろう。そして島氏はまさに在地領主から成り上がってきた土豪であり、ついには興福寺一乗院と大乗院の確執も手伝い、「実力」で椿井氏を平群谷から追い出したのではなかろうか。

 さて、ここで椿井氏を取り上げたのにはもう一つ理由がある。平群谷南東部の矢田丘陵上には左近が築城あるいは修築したとされている椿井城があるが、『椿井氏系図』によると、弘安五(1282)年に大納言に昇った椿井氏房が、伊賀・大和・河内・阿波四ヶ国の太守に任ぜられ椿井城を築いたという。つまり同城は既に鎌倉末期頃に築城されていたことになるが、現在矢田丘陵に残る椿井城(跡)は、その遺構から木沢長政や松永久秀が拠った信貴山城に対抗して築かれた「軍事用の城」である可能性が高く、氏房の時代に築かれたものとは到底思えない。
 私論ではあるが、椿井氏が築城したとされる「椿井城」は、存在したとするなら山裾の椿井集落の中心に位置する居館的な規模の平城と推測され、矢田丘陵上の椿井城とは別物であろう。現在その遺構は確認されてはいないが、平群町椿井付近には「貴殿」「城垣内」という地名が残っており、これらは大和椿井氏に由来する可能性も十分考えられる。また椿井集落とは竜田川を隔てた北西の地に、13世紀頃築城したとされる下垣内(しもがいと)城があり、時期的に椿井氏との関わりも否定出来ない(椿井氏またはその一族が築城した可能性がある)ため、町の今後の調査を待ちたい。

西宮城と下垣内城  次稿でも述べるが、長禄四(1460)年十月に河内畠山義就勢の一手が「平群嶋城」を襲うが失敗するという記録が『経覚私要鈔』に見られる。「平群嶋城」が具体的に平群谷の何処の城を指すかは明らかではないが、『椿井氏系図』にある「椿井城」を別にすると、下垣内城またはその隣の西宮城が有力候補として挙げられよう。両城を比較すると、現在残る小字名が下垣内城は「古城」、西宮城は「城畑」であり、近年の調査による出土物などから明らかに下垣内城の方が古い時代に築城されているのは間違いない。右の写真は両城を一まとめにして画面に収めたもので、向かって左の森が西宮城跡、右の少し低い森が下垣内城跡、手前を流れる川は竜田川である。
 ということは、勢力を伸ばしてきた島氏が下垣内城の椿井氏(またはその一族)を追い出した後に入城、隣に西宮城を築いて規模を拡大したという見方も、現時点では仮説ではあるが、十分あり得る話なのである。

 これは島氏にも言えることであるが、この時期平群谷を含めた大和北部は南山城と関係が深く、島氏の一族も木津(現京都府相楽郡木津町)の執行職を務めている記録があることから、今まで以上に平群谷および島氏と南山城との関係を重視していく必要があろう。


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