上庄城と曾歩々々氏

室町期の平群谷北部には、曾歩々々氏という一風変わった苗字の一族がいました。やがて時代とともにその名は記録から消えていきますが、この曾歩々々氏の消滅が左近の出生に大きく関わってくる可能性があります。


上庄城と曾歩々々氏

 鎌倉時代の初め頃から、平群谷北部の最も奥にある現在の平群町大字椣原(しではら)を中心とする一帯に、平野殿庄という庄園が存在した。その成立は暦仁二(1239)年で、これは仁和寺行遍が宣陽門院に灌頂を授けた見返りとして与えられたものである。その後、建長四(1252)年に行遍は同庄を供僧料として東寺に寄進、これより平野殿庄は東寺領庄園となる。この平野殿庄の在地には下司と惣追補使の庄官職があり、それらはいずれも平氏の一族によって代々占められていた。
 同庄領域内には、先に公開した「茶々逆修」の稿でも触れている椣原山金勝寺が含まれているのだが、正安二(1300)年には金勝寺の和尚が下司・平治部左衛門尉清重の子十郎に傷つけられた記録があり(『東寺百合文書』)、この事件をきっかけに興福寺が同領内への干渉を企図した形跡が見られる。
 この平群谷北部一帯に在住していた平氏一族は、やがてそれぞれの居住地の小字名などを称して森本氏や大井氏などのいくつかの氏族に分かれていったと思われ、次第に平群谷から平氏の名は消えていく。つまり室町期における平群谷北部在住の土豪は、かつての平野殿庄下司・平氏一族の後裔(支流)であるものも多いと見て良いであろう。

通称ソブソブ薮  さて、これらのうち平野殿庄在地の平氏一族は、上庄(かみしょう)地内の小字である「ソフソフ」を苗字として曾歩々々(そぶそぶ)氏を名乗る。この「曾歩々々」の読みを「そふそふ」とするものもあるが、「曾部々々」の字を用いた記録もあることから「そぶそぶ」が正しいものと思われる。後の明徳四(1393)年正月に曾歩々々五郎信勝は下司平康清から平野殿庄を買得している記録がある(『教王護国寺文書』)ことから、以後平群谷北部に住して島氏らとともに筒井党に属した興福寺一乗院方坊人(国民)曾歩々々氏は、おそらくこの信勝の家系であろうと推測される。
 写真は曾歩々々氏の苗字の由来である通称「ソブソブ薮」(現平群町上庄)で、ここは上庄中城跡と伝えられている。当時上庄城は北城・中城・南城の三ヶ所があったが、残念ながら南城跡は現在農地化されており残っていない。以下『教王護国寺文書』から抜粋する。

「沽却 平野殿庄下司職事
右、件下司職者、平康清先祖相伝職、於知行無子細者也、雖然、依有要用、充直米三十五石、限永代曾歩ゝ五郎殿奉売渡事、明白也、(以下略)
 明徳二二癸酉正月廿四日 平康清 判」


 こうして曾歩々々五郎信勝は一族の平康清から平野殿庄を買い取り、上庄の地に居館を築いてここを本拠としたものではないかと思われる。


消えた曾歩々々氏

上庄北城跡  曾歩々々氏はやがて春日社国民となり、筒井・島氏らと行動をともにする。後に応仁の乱が勃発した頃には曾歩々々俊清、後の天文期に清繁の名が記録に見えるが(『東寺百号文書』)、この頃が曾歩々々氏の最盛期だったと思われる。河内畠山氏の内紛に巻き込まれた同氏は島氏らとともに筒井党に属して政長方に加担するが、当初の長禄四(1460)年十月十日には竜田の政長陣や平群の島氏のもとに来襲した義就方の軍勢を撃退し勝利しているものの(『経覚私要鈔』)、次第に巻き返されて劣勢となり、ついには平群谷を追われることとなる。
 写真は曾歩々々氏が本拠としたと思われる上庄北城跡(平群町上庄)であるが、ここは城というより居館と言った方が適切かと思われる規模で、外部(特に北方面)から侵入する敵の防御と言うよりは、領主としての威厳を在地の百姓たちに示すためのものといった意味合いで捉えた方が良さそうである。

 さて、『大乗院寺社雑事記』によると、

「文明九年酉九月廿一日畠山入国以来没落輩 筒井 成身院 安楽坊 中坊 嶋 萩別所 小林 辻子 宝来 木津 箸尾 金剛寺 曾部々々(以下略)(文明十三年九月廿九日条)
「大和衆官領方引汲牢人 筒井 (中略) 檪原 嶋文明十四後七入滅 曾部々々(以下略)(文明十四年十二月三十日条)

とあり、文明九(1477)年以降に曾歩々々氏が筒井・島氏とともに没落したことはまず確実である。そしていつしか曾歩々々氏の名が記録から消えるのであるが、他所に移った形跡も見られないため、これについては大きく分けて二つの考え方がある。一つは惣領や跡継ぎの相次ぐ戦死・病死などで家自体が消滅したとするもの、もう一つは縁組などにより島氏など自家より大きい勢力に飲み込まれてしまったとするものである。
 ここでは後者の説を採りたい。平群谷において基盤としていたエリアの位置関係を考えると、曾歩々々氏はおそらく島氏と養子縁組などを結んで「吸収」され、やがて一体となったものと思われる。そして天文年間には左近が誕生するのであるが、年代的に見て左近は、この曾歩々々氏の流れを汲む人物である可能性が大きいのである。これは重要なことであり、後の稿で少し詳しく述べることにしたい。


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