ここでは筒井氏に関して新たに発見・判明したことを臨時稿の形でご紹介します。なお、この内容は後に再編集され別項に移行します。 |
大和郡山市教育委員会によって2003年2月より発掘作業が進められていた筒井城跡(同市筒井町字シロ)において、この度発掘調査が一段落したことから3月30日14:00より現地説明会が開催され、その成果が一般公開された。 写真は発掘現場から現れた、幅約12m・主郭部分からの比高3m以上にも及ぶ巨大な堀跡で、素堀としては奈良県下では最大級の規模のものとみられる。なお手前が本郭側であり、堀は左右(南北)方向に掘られている。 また堀には人為的に埋め戻された痕跡があり、瓦・土器・陶磁器、五輪塔などの石造物、焼けて切断された建築部材の一部(梁=写真右)などの出土物から、その時期は16世紀中頃と推測される。さらに注目すべきは本郭側堀斜面の粘土層から鉄砲玉が発見されたことと、本郭側で多量の 焼土 がみられたことである。筒井城の全貌や出土物の個々の考証については市教委の公式発表を待ってからご報告させて頂くこととし、ここでは出土した鉄砲玉と焼土から考えられることについて、一足先にご紹介させて頂くこととする。 左の写真がその鉄砲玉である(公開許可済)。直径10.8〜11.0mm・重さ7.68gでほぼ完全な球体をとどめており、材質は比重から鉛と考えて良いと思われる(注※)。所々で美しく銀色に光る地肌が認められており、保存状態はきわめて良好である。 これは地表近くの本郭側堀斜面の柔らかい粘土層中であったこと、加えて堀がその後埋め戻されているという幸運も重なって、今回の貴重な発見となったものである。 注※:直径10.9mmの鉛製の球体と仮定すると、計算上の質量は7.70g(20℃)となる。 鉄砲玉は各地で発見されてはいるが、製造場所の近くで見つかった「ストック玉」など、実戦で使用されていないものも多い。しかし今回発見されたものは粘土層の中に撃ち込まれており(写真右の円内部分より出土)、明らかに実戦に使用された玉である。(写真は堀内より東向きに撮影) 従来筒井城の堀が埋められたのは天正八年の織田信長による破城令の際のことと考えられていたが、今回の発掘調査においてその時期は出土物から16世紀中頃であること、また戦後程なく埋められたとみられることが判明したため、今一度この戦いが行われた時期を考えてみた。 我国への鉄砲の伝来は異説もあるが、一般には天文十二(1543)年八月二十五日のこととされている(『鉄炮記』)。近畿圏で鉄砲が初めて実戦に使用されたとみられるのは天文十九(1550)年七月の洛中の戦いであるが、これは三好長慶と足利義輝・細川晴元・六角定頼連合軍が京都で戦ったもので、三好方の兵が細川晴元軍の放った鉄砲によって戦死したことが『言継卿記』同月十四日条に記録されている。 なお、九州では天文十八(1549)年五月から島津貴久の家老伊集院忠朗が加治木城の肝付兼演を攻めた際(黒川崎の戦い)、鉄砲を用いていることが『貴久公御譜』に見える。 天正三(1575)年五月の長篠合戦で大量の鉄砲隊を編成し武田勝頼を撃破したことで知られる織田信長も、天文二十二(1553)年の斎藤道三との「正徳寺の会見」において早くも鉄砲隊を引き連れており、翌年の対今川氏・尾張村木砦(城)攻略戦において鉄砲隊を動員していることから(『信長公記』)、天文年間末期頃には全国の大名たちがこの新兵器の威力に注目していたであろうことは容易に想像できる。 さて、核心となる戦いの時期であるが、 1.戦いに鉄砲が使用されていること。 2.弾丸が筒井城に向けて発砲されていること。 3.弾丸が撃ち込まれた後に堀が埋め戻されていること。 4.埋め土の中から焼けた建築部材の一部が出土していること。 5.堀が埋め戻された時期は出土物から16世紀中頃とみられること。 以上を考え合わせると、永禄二(1559)年の松永久秀による大和侵攻時の際のものではないかと推定される。理由は以下の通りである。 松永久秀と筒井順慶は、永禄二年の久秀の大和侵攻以来数々の激闘を繰り返してきたことは周知の事実である。しかし戦国期の大和研究には欠かせない史料の一つである『多聞院日記』は天文十九(1550)年九月〜弘治元(1555)年十一月と同二年正月十五日〜永禄八(1565)年七月までの間が欠けており、同日記からこの間の両者の動向を知ることは出来ない。 しかし同日記とほぼ同等に信頼の置ける史料である『享禄天文之記』永禄二年八月六日条ならびに『二条寺主家記抜萃』同年八月十日条から、 ※「筒井平城」が落城し、筒井氏が「山ノ城」へ上ったこと(『享禄天文之記』) ※筒井・十市・万歳氏が没落したこと(『二条寺主家記抜萃』) がわかる。「山ノ城」とは椿尾上城(現奈良市北椿尾町字城山)のことを指し、筒井城を追われた六郎藤勝(順慶)は東山内と呼ばれるこの地域を拠点に、以後久秀とのゲリラ戦を長期にわたって繰り広げる。なお当時久秀は三好長慶の家臣であったが、長慶は同時期に河内守護代の安見直政を高屋城に破っており、この大和侵攻はその勢いに乗じた長慶の意図によって行われたものである。 『享禄天文之記』によると、筒井城を落とした久秀をはじめとする三好勢は引き続き松ノ尾・山田・ヘクリ(平群)谷・生駒谷・高尾などを次々に焼き払い、井戸・万歳・十市といった城を攻めており、非常に大規模な侵攻であったことが窺える。 これ以降筒井藤勝は椿尾上城を拠点に活動するが、永禄九(1566)年四月二十六日に三好三人衆とともに筒井城奪還に向かい、三人衆の力を借りて和議により念願の奪還を果たすまで(『多聞院日記』同年六月八日条、『享禄天文之記』同八月八日条等)、筒井城へは戻っていないようである。筒井城に入った藤勝は同年九月二十八日に興福寺成身院にて得度、ここに陽舜房順慶となった。 しかしそれも束の間、順慶は永禄十一(1568)年十月六日に松永久通に攻められ城の際まで焼き払われ、八日の夕刻に筒井城から脱出した。筒井城はここに再び松永方の手に渡る。(『多聞院日記』同年十月六日・九日条) この後順慶が再び筒井城を回復するのは元亀二(1571)年八月の辰市合戦で久秀を撃破した後のことであり、それ以後同城を舞台とした戦いは記録には見られない。 埋め土に五輪塔などの石造物(写真は出土直後の様子)や焼けた建築部材が含まれるということは、堀を埋め戻したのは松永方であろう。また本郭側に多量の焼け土が見られるということは、筒井城の一部または全部が炎上したことを示しており、これは当時の大和国内の戦いによく見られる「自焼(じやき)没落=城館に自ら火を放って逃げ出すこと」という行動を筒井氏がとったものと考えられる。そうすると、この鉄砲玉が放たれた戦いが行われた時期は永禄二年・十一年のいずれかということになるが、永禄十一年の際には翌朝松永久通が攻め寄せており(『多聞院日記』同年十月九日条)、筒井氏が前日に城を焼いて脱出したとは考えにくい。 以上が、戦いの時期は永禄二年の際のものと推測する理由である。 なお、『奈良県史11 大和武士』では永禄八(1565)年十一月十八日に「久秀が筒井藤勝丸(六郎・順慶)を筒井城に攻めて陥れると藤勝丸は布施城に逃れて抗戦したが(後略)」と見え、『日本城郭大系』(新人物往来社刊)にも当時落城したとの記述があるが、『多聞院日記』同年十一月十八日条には 「筒井六郎殿布施城ヘ被入了、國中心替衆数多在之云々」 と見えるだけで、他の史料にも筒井城で戦いが行われた記録は見当たらない。 『享禄天文之記』永禄五(1562)年五月二十日条では筒井氏が超昇寺方に攻められ菩提山寺まで落ちていったこと、また二十一日には筒井郷が焼き払われていること、二十三日に順清(順政)が「山ノ城」へ登っていること、久秀が筒井方の陣である菩提山寺を攻め順清が畑(山辺郡)まで落ちていったことが記されており、筒井氏が少なくとも当時筒井城を追われていたことがわかる。 また永禄八年当時藤勝(順慶)は十七歳で、幼少から叔父順政が後見を務めていたことが知られているが、順政は前年の三月十九日に堺で客死している(『興福寺年代記』)。もしこの時期藤勝が筒井城にいたのならば、後見人の順政が何も堺で「客死」する必要はないはずである。 つまり藤勝が布施城(現北葛城郡新庄町寺口字布施)に入ったのは事実だが、これは筒井城を追われて逃げ込んだのではなく、同城奪還に向け布施氏の力を借りるべく入城したものと考えたい。 筒井城は永禄二年八月に三好長慶の将・松永久秀の大和侵攻を受け銃撃戦を伴う戦いにより落城、筒井氏は自ら城館に火を放って椿尾上城へ退いた。その後久秀は焼けた城郭の一部を破却するとともに堀を埋めて筒井城の機能を著しく低下させ、以後は主として兵站拠点として利用した。彼は二年後に多聞山城を築城して信貴山城との二元支配を行うが、当時既に大和を支配するには筒井城では不利と考えていたものと思われる。 2003年4月2日記(4月8日一部加筆) 文責:Masa 画像を含めた当稿の無断転載および引用を禁じます。 |