戦国筒井氏年表 No.5
享禄元(1528)年〜永禄元(1558)年
* 印は閏月を示します。
西暦和暦日付事績
1528 享禄1 *9/5 柳本賢治が大和へ侵入する。「越智同心」と記録に見える。
1529 享禄2 1/26 柳本賢治が再度大和へ侵入、赤沢大和守幸純と争い幸純は自害する。
    4/27 賢治が三度大和へ侵入、五個庄・高樋・椿尾の諸城と内山寺を攻め奈良に布陣、筒井順興と礼銭三千貫等を条件に和睦し数日後京に退く。
1530 享禄3 6/29 播磨出陣中の柳本賢治が、細川高国の刺客中村助三郎に同地東条谷玉蓮寺の陣中にて討たれる。
1531 享禄4 8月 畠山義宣(義英の子)の被官木沢長政が義宣に背いて晴元に属す。義宣は長政を河内飯盛城に攻めるが晴元の来援により敗れる。
1531 天文1 5/19 義宣らが長政を飯盛城に攻める。筒井順興も義宣方に参じるが晴元の要請を受けた本願寺証如(光教)が三万の門徒衆を加勢に向けたため総崩れとなり、義宣は木沢方に捕らえられる。義宣は6/17に自害。
    7/10 奈良で一揆が蜂起、門徒衆と合流して興福寺・春日社に乱入、院坊を破壊する。(天文一揆起こる)
    7/30 一揆勢が越智氏の高取城を攻めるが筒井・十市氏の来援により敗れ、吉野へ退く。
    8/9 一揆勢が奈良中を残らず焼き払う。
    8/22 一揆勢が布施・倶尸羅・越智衆と吐田で戦うが敗れ、数百人が討たれる。
1535 天文4 7/5 筒井順興が没す。享年52歳。13歳の息子藤松(順昭)が跡を嗣ぐ。
1536 天文5 6月 木沢長政が大和侵入を策し信貴山に城を構える。
    10/6 幕府が長政に年貢滞納を続ける戒重氏への発向を命じ、長政はこれを受ける。
1537 天文6 7月 長政が越智氏討伐を開始する。
1538 天文7 1/25 長政が戒重氏を信貴山城にて殺害する。
1539 天文8 8月 大和国中の興福寺領荘園の闕所が32箇所記録に見られる。
    10/8 長政が興福寺領法貴寺庄へ給人を入れる。
1540 天文9 5/5 【参考】『和州諸将軍傳』によると、後に筒井順慶・石田三成のもとで活躍する島左近清興が生まれる。
1542 天文11 3/17 長政が高屋城に稙長を攻めるが、太平寺にて稙長・三好範長(長慶)に敗れ討死する。(河内太平寺の合戦)
    8/1 稙長の和泉松浦氏討伐に際し、筒井順昭が六千の兵を率いて高屋城へ留守役として入る。
1543 天文12 4/16 順昭が六千の兵を率いて東山内の簀川某を攻める。
    7/10 越智氏が順昭方の万歳氏を細井戸に攻めたため、順昭が越智氏討伐へ動くが稙長の仲介により兵を収める。再び筒井・越智両氏の抗争が始まる。
1544 天文13 4/27 順昭が東山内に残る簀川方柳生氏を小柳生城に攻める。
1546 天文15 8/21 細川晴元が三好範長を堺に出陣させ細川氏綱・畠山政国(稙長の弟)・遊佐長教らの兵に備えさせる。順昭は政国・遊佐方として氏綱に合力し竜田に出陣、奈良では超昇寺・山城衆が晴元方に備える。
    9/20 十市氏が筒井氏へ城を明け渡し、十市藤勝は多武峰に退く。
    9/25 順昭が菅原氏に続いて越智方多武峰郷を攻める。越智氏は貝吹城などに拠って抗戦する。
    10/10 順昭が貝吹城を落とし、嘉幡・高田・八條氏ら五人を同城に入れて陣払いする。「一國悉以帰服了」と記録に見える。
1547 天文16 5月 筒井氏の手により箸尾城が破却される。
1548 天文17 8月 順昭が畠山政国の弟某を山城和束城に攻め殺す。
1549 天文18 4/26 順昭が与力衆に藤勝(順慶)に家督を譲る旨の書き置きを残し、比叡山へ遁世する。
1550 天文19 6/20 筒井順昭が病没する。享年28歳。藤勝が跡を嗣ぐ。※順昭の没年については天文二十年説もある。
1551 天文20 5/5 河内守護代・遊佐長教が暗殺される。
1558 永禄1 11/30 河内守護・高屋城主畠山高政と守護代・安見長政が不和となり、高政は堺を経て紀州へ落ちる。

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