激闘!辰市城の戦い
〜順慶の巻き返し〜

じりじりと久秀に押されていた筒井氏でしたが、ついに辰市城をめぐって久秀と激突、戦いに大勝して筒井城を回復します。


松永久秀の離反

 さて、元亀元年といえば信長の苦難の年で、越前攻め最中の四月二十七日に浅井長政が反旗を翻したため戦線を離脱、帰路千種越えの途中に杉谷善住坊の狙撃に遭うなど這々の体で岐阜へ帰り着くことは有名である。『多聞院日記』元亀元年四月二十九日条には早くも「去二十五日ツルカニテ及一戦、信長人數少も損ノ由ユルキヨリ注進ト云々、實否ハ不知」と見え、五月一日条には「信長・松永悉昨日京迄引退了、廿五日人數二千余も損歟」とあることから、久秀も従軍していたことがわかる。一説に信長を無事に京都まで逃がしたのは、まさに久秀の功であるともいう。

姉川古戦場跡  浅井長政の離反に怒った信長は六月二十八日に近江姉川(写真左)で浅井・朝倉勢を破って溜飲を下げたものの、七月二十七日には三好三人衆らが雑賀衆を誘い摂津野田・福島に砦を構築、天満ノ森に布陣する。そして九月七日、摂津に出陣した信長・足利義昭が同所に兵を進めると、突如本願寺が三好三人衆に加担する形で挙兵、いわゆる石山合戦が始まった。さらに同月十九日にはこれに呼応した浅井長政・朝倉義景が信長方の近江宇佐山城を攻撃、城将森可成・織田信治が討死する。報を聞いた信長は急遽軍を返して近江坂本へ出陣するがどうにもならず、結局十二月十四日に天皇の綸旨を取り付け三好三人衆・本願寺とも併せて和議に持ち込み、瀬田に軍を引くはめになった。

 さらに「大物」が動く。武田信玄が元亀二年三月に三河へ侵攻、翌四月には足助・野田城を落とす。ここに至って久秀は信長に反旗を翻し、信玄に通じて三好三人衆とも和睦する。裏で糸を操るのは足利義昭である。
 ところで『多聞院日記』元亀元年四月二十七日条に

「昨夜十城ヘ、嶋沙汰トシテ可有引入通ノ處顯現了ト云々、ウソ也、乍去雑説アル故ニ、廿九日歟ニ嶋ハ取退了ト云々」

とある。十城とは十市氏の十市城(現奈良県橿原市)を指すものと思われ、同氏は先に久秀の軍門に下った十市遠勝が前年十月に没して以来(同日記)、嗣子がなかったことから家中が筒井派と松永派に分裂していた。遠勝の娘「おなへ」は後に松永金吾(久通)の妻となるのだが、勢力回復に一人でも味方の欲しい順慶がこの機を見逃すはずはなく、島氏(左近か)に命じて帰参を交渉させたものと考えたいところである。しかし、最近の研究により当時島氏は久秀の配下にあったとみられる事が判明してきており、当稿では現時点でこれ以上の言及は避けることとする。(※1)
 むろん久秀も十市氏に働きかけてはいるが、同日記六月六日条に

「松城父子南へ陳立、何方ヘか不知之、四打迄井戸辺ニ在陣、各々不審之処十市城ノ内ニ菅原調略筈之処不成間、則菅原ハ柳本ニ離了」

とあるように、十市城は久秀の開城勧告には応じなかったようで、城内松永派の菅原某は柳本へ去った模様である。七月二十五日に久秀が子の久通とともに河内方面へ向かうと、同二十七日には久秀不在の隙に筒井順慶が五百の兵を率いて十市城に入城していることを考えると(同日記)、先の「嶋」の働きかけの時点では態度を明らかにしなかった十市城も、後には筒井方に付いたようである。これは後に筒井氏に属して活躍する十市常陸介(遠長)の意向が反映されたものと考えたい。そして元亀二(1571)年八月、両者はついに辰市(現奈良市西九条町)で激突する。
※1 これについては近日刊行予定の大和郡山市教育委員会『筒井城総合調査報告書』にて拙論を発表させて頂いていますので、刊行を待ってさらなる検討を加えた上で公開いたします。(4/13現在・入稿済)


辰市城の戦い

辰市城跡付近  元亀元年七月二十七日、久秀不在の隙に十市城に入城して反撃の拠点を得た筒井順慶は翌二年七月、井戸若狭守良弘に命じて辰市に城塁(陣城)を築かせた(写真は辰市城跡周辺)。その築城日時には異説もあるが、『多聞院日記』の記述を採用すると同年八月二日のようである。急場仕立ての城ではあったが同城は現在のJR奈良駅から南西約2.6kmの地点にあり、ここを筒井方に押さえられると松永勢は動きが取れなくなる。事態を憂慮した久秀は同城攻略に向け八月二日に信貴山城から出陣、河内若江城の三好義継と合流して四日の昼頃南都大安寺に入った。ここで多聞山城からの久通勢と合流、「酉上刻」に一斉に辰市城に攻め掛かった。

 松永勢が攻め掛かったところへ駆けつけた筒井勢・郡山衆の後詰が到着し、両軍入り乱れての大激戦となった。後詰めの到着に力を得た井戸勢も城内から討って出て力戦したため松永勢は支えきれず、多聞山城へと退却する。ところが本道は筒井方に塞がれており通れず、久秀は奈良の南・京終という所で脇道に入って町屋に放火、その煙に紛れてかろうじて多聞城へ逃げ込んだという。(『大和記』)

 戦いの結果は松永方の大敗で、久秀甥の松永左馬進と同孫四郎・甥金吾の若衆松永久三郎ら一族をはじめ、麾下の河那邉伊豆守・渡邊兵衛尉・松岡左近・竹田対馬守らが討死した。取られた首は合わせて五百、負傷者も重臣竹内下総守秀勝をはじめ五百余を数えるという惨敗で、竹内勢に至っては負傷しなかったのは馬上の三人だけという惨状だったらしい(『多聞院日記』)。なお薄手を負ったとされる竹内秀勝は翌月二十二日に河内若江城で没しており、戦傷が原因かどうかは不明だが、久秀は最も頼れる部下の一人を失った。
 多聞院英俊はこの戦いについて「當國初而是程討取事無之、城州ノ一期ニモ無之程ノ合戦也」、すなわち「大和国始まって以来、これほど討ち取られた戦いはない。久秀の生涯でかつてなかった程の合戦である」と感想を述べている。

 『和州諸将軍傳』ではこの戦いにおける筒井勢の先鋒に左近清興と松倉右近等の名が見えるが、宇多を出陣したとき(同書には七月二十九日に出陣とある)の人数はわずかに八百人という。しかし道中次々と大和国人衆が加勢に駆けつけ、辰市に到着した際には五千人に膨れ上がっていることから、これが事実とすれば松永久秀が戦ったのは筒井順慶と言うよりも「反松永大和国人連合」と見る方が正しい。むろんその中心は順慶であることに間違いはないが。

 久秀は敗戦後程なく信貴山城へ退き、順慶は松永方の手に渡っていた筒井城をも我が手で奪回、以後筒井城が奪われる事はなかった。この後も久秀と順慶の間で戦いは続くが、もはや久秀に以前ほどの勢いはなく、信長をも敵に回していた久秀は進退に窮する。翌天正元(1572)年四月には、頼りにしていた甲斐の武田信玄が上洛中に持病の労咳が悪化して伊那駒場で病歿し、反信長派の旗頭で槇島城に籠もって抵抗した足利義昭も、七月十九日に攻め落とされ河内に追放されて室町幕府は滅亡する。さらに信長は八月二十日に越前一乗谷の朝倉義景、二十八日には近江小谷城の浅井長政、十一月には河内若江城の三好義継と立て続けに攻め滅ぼすと、意を決した久秀は信長に降参、十二月二十六日に多聞山城を明け渡した。ここに松永久秀の大和支配は終わりを告げたのである。


BACK  TOP  NEXT