赤沢朝経父子の侵入が終わったと思えば、柳本賢治の侵入に加えて天文一揆が起こりました。そんな中で順興は没し、若い順昭が跡を嗣ぎます。しかし、息つく暇もなく今度は木沢長政の侵入に遭います。 |
天文一揆 享禄元(1528)年閏九月、大和は柳本賢治の侵入を受け、同三年六月二十九日に賢治が播磨東条谷で暗殺されるまで計三度の侵入に遭う。最初の侵入について『二条寺主家記抜萃』には「越智同心」と見える。越智氏が何を企図していたのかはわからないが、後々の行動を見ると何か煮え切らないものを感じる。 さらに天文元(1532)年には細川澄元の子・晴元と畠山義英の子・義宣の抗争から晴元に要請を受けた本願寺門徒衆が蜂起、いわゆる天文一揆が起き畿内各地で戦闘が繰り広げられた。この騒動のそもそもの原因は、義宣の被官であった木沢長政が背いて晴元に属したことに端を発する。 木沢左京亮長政は初め畠山義宣のち細川高国・晴国・晴元に属し、飯盛山城にて河内半国・山城下五郡の守護代となっていた天文元(1532)年五月、旧主畠山義宣に同城を包囲されるが、細川晴元・本願寺証如の加勢を得てこれを破り、義宣を自刃させている。同五年には大和乱入を目論み信貴山に城を構えるが、一部は支配下に置いたものの晴元・三好政長らと対立、同十一年三月十七日に河内太平寺における戦いで敗死する人物である。 参考までに、天文元年の記録として次のようなものがある。 「(前略) 筒井順興ハ家人森九兵衛好之ヲ筒井ニ残シ、嶋左近友之・松倉弥七郎政秀・小和泉等ヲ引具シ、二諦坊ノ作外郡山ノ小田切宮内少輔春次ト一手ニナリ都合三千五百余人、二日ノ朝明ケニ郡山口ニ打向フ、(後略)」(『畠山家譜』五條市・楠本治朗家蔵) 「(前略) 順興法印筒井ノ城ニハ長子順昭九歳ナルニ家老森九兵衛好之十四歳ナルヲ残シ置キ、嶋・松倉・小和泉等二千五百余人、小田切宮内千余人、両勢合テ三千五百余人、同八月二日郡山口ヨリ押寄タリ、(後略)」(『和州諸将軍傳』※句読点は後補) 『畠山家譜』に「嶋左近友之」と見えるが、これは年代的に見て島左近清興ではなく、先代左近である。従来、左近清興以前の島氏当主は確かな記録には見えず、実在したかどうかも疑問であった。しかし今年九月に平群町の安養寺で天文十八年九月十五日付の俗名「嶋佐近頭内儀」なる位牌が確認され、先代も左近を名乗っていたことが濃厚となったことから、『和州諸将軍傳』等の記述もあながち俗書として切り捨てるわけにはいかなくなってきている部分がある。なお併記されている松倉弥七郎政秀は、一説に左近とともに「筒井の右近左近」で知られる松蔵右近勝重(註)の父とされる人物で、天文二十二年正月朔日に春日社に灯籠を寄進しており、その実在が確認できる。 【註:松倉勝重は『寛政重修諸家譜』では松倉重信とする】 大和における一揆勢は天文元年七月に興福寺・春日社に乱入、院坊を破壊した。次いで同月末には越智氏の高取城を襲うが、来援した筒井・十市氏に敗れて一旦吉野へ退く。 八月には再び奈良中を焼き払うなど暴れるが、布施氏らに敗れて数百人が討たれ、ようやく下火となっていった。 木沢長政の侵入 こうして一揆は収まったが、畠山氏の被官で河内半国・山城下五郡守護代を兼ねる木沢長政は天文五(1536)年六月、大和侵入を目論んで信貴山に城を構えた。信貴山城は平群谷南部の西に位置し、眼下に西宮・下垣内城を見下ろせるため、平群谷に戻っていたと思われる島氏にも緊張が走ったことであろう。なお、筒井氏では順興が天文四年七月に五十二歳で没し、まだ十三歳の藤松が跡を嗣いでいた。これが順昭である。 大和では当時戒重氏知行下であった大仏供庄からの年貢未進が続いており、興福寺は越智氏に戒重氏への発向(軍勢派遣)を命じるが、実施されなかったため幕府へ訴えた。幕府の下命により長政は天文六(1537)年七月に越智氏討伐を行い、翌年正月には十市氏の協力もあって戒重氏を信貴山城で殺害するなど(『享禄天文之記』)、徐々に侵略を広げる。同八年の記録では興福寺領の庄園が三十二ヶ所も闕所となっており、長政がこの間庄園を次々と占領して自らの家臣に知行させていた可能性が高い。この時期には興福寺はもはや独力では大和を支配できなくなっていたわけで、長政は幕府の命令という大義名分の下、大和を蚕食していったのではないかとみられる。 ただ長政の大和侵攻の名分が筒井党と対立する越智氏討伐であったことが同党には幸いした。赤沢朝経父子侵入時のような状況までには至らなかったようである。 とは言え、当然信貴山の東麓にある平群谷は位置的に見て真っ先に狙われるはずで、『平群町史』も「当時は畠山(木沢)の支配下にあったであろう」としている。しかしそれも長くは続かず、長政は同十一年三月十七日に河内太平寺(落合川)の合戦で戦死、信貴山城も焼け落ちて木沢長政による大和支配は終わりを告げた。記録にこうある。 「(前略)中ニモ三木牛之助ト云者、敵将木沢左京亮ヲ討取、終ニ其頸ヲ得タリケリ、抑此木沢左京亮長政ハ気カサナル者ニテ、度々大軍ヲ促シ武功ハ勝レタリケレ共無双ノ悪人ニテ、先年大物ノ戦場ニテ俄ニ故常桓禅門(細川高国)ヲ叛キ裏返リ、又三好故海雲(元長)ヲ讒死セシメ、其後主君畠山故総州(義英)ヲ弑シテ、今度モ故長経(畠山)ヲ毒害ス、寔以希代ノ悪人ト謂フヘシ」(『続応仁後記』※人物註は後補) 「無双ノ悪人」「希代ノ悪人」とは手厳しい。いくら戦国乱世と言えども、長政は世上にあまり芳しい評価はされていなかったようである。 さて、平群谷が木沢方の支配下になっていたとすれば、直接の記録は見られないが島氏はまた追い出された可能性もある。一方、翌十二年七月に越智氏が順昭方の万歳氏を細井戸に攻めたため、順昭は越智氏討伐へ動く。この時は畠山稙長の仲介により順昭は出兵を思いとどまるが、再び筒井・越智両氏の抗争が始まった。こうして大和国人一揆はまた崩壊するが、これを機に順昭は動き出し、天文十五(1546)年十月には越智氏の拠る貝吹山城を落とすなど勢力を盛り返す。しかし同十九年六月二十日、順昭は二十八歳の若さで病により世を去った。ここに幼い順慶が跡を嗣いで筒井氏の惣領となったわけである。 そんな永禄二(1559)年八月、三好長慶は河内守護代安見直政を高屋城に攻め、紀伊に逃れていた畠山政国の子・高政を同城に迎えると、勢いに乗って重臣松永久秀を大和に派遣し筒井・十市氏らを攻めさせた。筒井氏らは久秀勢に破れて没落、久秀は信貴山城を再築してこれを本拠とし、さらに同四年には奈良に多聞山城を築いて本格的に大和支配へと乗り出してくる。 |