竹鼻城の戦い
〜杉浦重勝の関ヶ原〜

石田三成は東軍を迎撃するにあたり、岐阜城をその中心とし、さらにその両翼の拠点として犬山城・竹鼻城を定めました。東軍は岐阜城攻撃に向け河田渡から米野方面へは池田輝政、起(尾越)渡から竹鼻方面へは福島正則が軍を進めます。


三成の迎撃策

木曽川対岸から望む犬山城  八月九日、石田三成は六千の兵を率いて垂井に進み、大垣城主伊藤盛正を説得したというか、半ば強制的に城を明けさせて入城した。彼は当初東軍との決戦の場を矢作川・境川(いずれも愛知県)あたりでと予定していたが、福島正則の臣・大崎玄蕃の拒否で清洲城入城が果たせず目論みが外れたため、この上は濃尾国境を流れる木曽川の線で食い止めようと考えていた。そして織田秀信の岐阜城を中核に、犬山城(愛知県犬山市)・竹鼻城(岐阜県羽島市)の前線防御ラインを構築、犬山城へは城主石川貞清に加えて稲葉貞道・典通・方通、加藤貞泰、関一政、竹中重門らを派遣、竹鼻城には城主杉浦重勝に加えて加賀野井秀盛と岐阜からの援将梶川三十郎・花村半左衛門、三成からの援将として毛利掃部を派遣した。さらに第二線として長良川右岸に自身の手兵と小西・島津勢を置き、最後の線として揖斐川を予定していた。しかし、この時点においても、なかなか三成の思うようには軍は集結していなかったようである。
 写真は木曽川越しに見た、別名「白帝城」とも呼ばれる犬山城である。この天守閣は日本最古といわれ国宝に指定されており、特筆すべきは日本で唯一の個人所有(!)の城ということである。所有者は家康の重臣成瀬正成から始まる歴代の犬山城主・成瀬家で、現在の御当主で十二代目を数える。(画像クリックで天守の拡大画像あり)

清洲城天守から見た岐阜方向  一方東軍は十一日に福島正則が清洲に到着、十四日には先鋒部隊四万がほぼ集結していた。三成は清洲城を開城させようと、秀頼の名の下に木村宗左衛門を差し向けるが、福島正則の守将・大崎玄蕃長行が頑として応ぜず、城を守った。これを聞いた家康は感心し、後に「関ヶ原の勝利は長行が清洲をしっかり守ったからだ」と度々言ったと伝えられている。右の写真は、現在の清洲城天守閣から見た河田渡(岐阜)方向である。

 そして八月十九日に江戸にいる家康からの使者・村越茂助直吉が清洲に到着、翌二十日に軍議を開き、岐阜城・犬山城攻撃に向けて各将の持ち場を定め(一説にくじで決めたという)、二十二日に開戦と決定していた。どうやらこの時点でも士気においては東軍が勝っていたようで、現にこの後犬山城は何ら機能することもなく降伏開城してしまうのである。
 さて翌二十一日、東軍は福島勢らは尾張起渡し経由で、池田勢らは河田渡し経由でそれぞれ岐阜城へ、中村勢は押さえとして犬山城方面へと行動を開始した。


東軍、渡河に成功

正則の渡河地点付近  軍議で決定した通り、この方面へは福島正則が向かった。しかし渡河予定の起渡し(現尾西市起・濃尾大橋付近)は、『慶長五年岐阜軍記』に「此所砂地にて、馬の足立悪しく進みがたく」とある通り、あたり一帯は深い砂地で、また対岸へは水深もあり渡河しにくい場所だった。さらに西軍方の防御が予想以上に堅固だったため、正則らは更に下流の加賀野井城(羽島市加賀野井・名神下り線羽島PA付近)対岸付近まで移動、合図の狼煙を今や遅しと待っていた。写真は木曽川右岸の加賀野井から対岸の正則渡河地点付近を撮影したもので、左に見えるのはJR東海道新幹線と名神高速道路の木曽川橋である。
 ところが二十二日払暁、合図がないまま上流から激しい銃撃戦の音が聞こえてきた。正則は約定違反と怒り、ただちに全軍に号令し一斉に渡河、攻撃を開始した。攻撃開始については、上流の狼煙発見とともに銃撃音が聞こえた、正則が狼煙を上げて攻めかかった、夜半こっそり渡ったなどとする異説もあるが、ここではこのようにしておく。怒った正則らは寄せ集めた筏で木曽川を渡り、怒濤の勢いで竹鼻城へと向かった。


竹鼻城の戦い

竹鼻城跡  古記録には竹ヶ鼻城とも書かれている竹鼻城は、加賀野井城から北西約一里強、現在の羽島市竹鼻町(JR東海道新幹線・岐阜羽島駅の北東約2km付近)にあった。ただ所在場所の詳細については諸説あり現時点では明確ではないということだが、城跡の碑が羽島市歴史民俗資料館(兼映画資料館)の入口脇に建てられている(写真)
 当時の城主は杉浦五左衛門重勝だが、この城は応仁年間に竹腰伊豆守尚隆が築城して以来、長井豊後守利隆(土岐氏重臣)・その子隼人正道利・不破権内綱村(土岐・斎藤・織田信長に仕える)・その子源六広綱(信長・信雄に仕える)・一柳伊豆守直末(秀吉家臣)・伊木清兵衛忠次(池田輝政家臣)・森寺清右衛門(同)らが城主となっていた。重勝は信長・信雄と仕え、尾張浅野城(現愛知県一宮市)で一万一千石を領していたが、織田秀信に仕えていた文禄元年の末頃に竹鼻城に入ったと伝えられる。

 さて木曾川右岸に布陣中の重勝ら西軍は、正則が背後に回ったことを知り、慌てて陣を引き払い竹鼻城へ戻るが、城に入りきれない者が正則勢に追いつかれて討たれるなど大混乱となった。
 やがて城は完全に包囲される。東軍からは降伏勧告がなされたが、重勝はこれを拒否、激しい攻防戦が展開された。重勝はよく持ちこたえたが、まず三の丸が破られ、二の丸での戦いとなった。ところが二の丸にいた援将梶川三十郎・毛利掃部は、正則と旧知の間柄だったことから花村半左衛門とともに勧告に応じ、二の丸に笠を掲げて(降伏の意思表示)門を開き、東軍を呼び込んでしまう。重勝のまわりには従兵わずかに三十六名という有様だったが、屈せず本丸に立て籠もって頑張り、防戦に務めた。しかしもとより兵力差がありすぎた上に援軍の望みもなく、さらに福島伯耆の奮戦により遂に本丸が破られたため、重勝はもはやこれまでと城に火を放って自刃した。
 城を落とした正則は程近い境川の太郎堤で野営しようとしたが、輝政らが岐阜城下まで進出していることを知り、負けていられるかとばかりに夜行軍を敢行、この日のうちに岐阜城近くの茜部(あかなべ)村まで軍を進める。

 余談だが、このときの重勝の活躍が『毛利家文書』にこうある。

「大将五左衛門ハ元来聞エタル大力ナリ、大身ノ鎗ノ四尺余リニテ、柄ハ七尺バカリナルヲ片手ニ打振リテヲドリ出タルニヨリ、更ニ面ヲ向クル者ナシ、掃部介ニ内々意趣アルニ依リ、一文字ニ突テカカル、サレドモ運強ク、指副ノ赤銅鍔ヲカケテ上帯切リ、鞘ヲ流レテ槍ノ穂先弓手ニアタル所、藤九郎ノ鎗ニテ胸ヲ突ク、源次走リ寄テ突カントスルヲ、杉浦大身ノ鎗ニテナグル、源次ガ毘沙門小手ヲナグリ切テ城中ヘ返リ、門ノ入口ニ件ノ鎗ヲ立掛ケテ内ニ入テ自害ス」

 関ヶ原で散った武将といえば大谷吉継や平塚為広・戸田重政らが有名だが、この竹鼻城の戦いで精一杯戦い、力尽きて自刃した重勝も、勇将と言って差し支えない人物であったと思う。彼の自刃後、生き残った七人の兵達が主人の死骸を取り囲み自刃、後にこの様子を聞いた者を感心させたという。あまり知られざるここ美濃竹鼻にも、ちょっぴり美しく、しかし悲しい戦国の人間模様があった。

 杉浦五左衛門重勝、八月二十二日夕刻竹鼻城に死す。一説に、朝倉家の猛将・真柄直隆の甥ともいう。


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