石田三成のその後

戦いに敗れて伊吹山中へと脱出した三成でしたが、やがて捕らえられ処刑されます。ここでは合戦後の三成の行動をざっとご紹介します。


三成、古橋村へ

南から見た伊吹山  さて奮闘空しく西軍の敗勢が確定、三成は数名の家臣とともに関ヶ原を脱出し、北国街道を一路伊吹山指して敗走した。左の写真は名神高速道路上り線伊吹PAで撮影したもので、中央奥の冠雪している山が伊吹山である。
 『日本西教史』によると、「治部少輔ハ其身数多ノ重創ヲ蒙リ」とあるので、おそらく三成は満身創痍の状態だったのであろう。彼の敗走ルートや捕縛時の状況などには諸説あるが、そのうちの一つをご紹介する。

 彼はまず伊吹山麓から草野谷(現滋賀県東浅井郡浅井町草野)へと出るが、ここで周りを見ると家臣は磯野平三郎・渡辺勘平・塩野清助の三名に減っていた。三成はどうしても付き従うという彼らを諭し、「運が開けるならば大坂で再会しようぞ」と誓ってここで別れを告げる。

三成生誕地に建つ碑  単身となった彼は山道伝いに北上し、伊香郡の高野村(現伊香郡高月町高野)に入り、さらに北にある古橋村(現伊香郡木之本町古橋)へと逃げ延びる。三成は近江石田村(現長浜市石田町)の生まれであり、この辺には土地勘もあるはずで道に迷うようなことはなかったであろうが、この時の彼の姿はというと、破れ笠を頭にかぶって身には古蓑を纏い、腰には一柄の鎌を差していたという。
 写真は長浜市石田町の三成生誕地に建つ碑であるが、ここは石田村における彼の屋敷跡で現在は石田会館となっており、銅像や句碑も建てられている。

 そして日暮れを待って同村法華寺の塔頭(たっちゅう)三珠院に身を寄せたのだが、それはここの寺僧が三成の幼年期の手習いの師匠だったからだと伝えられている。ところが、このことが村人たちの知るところとなり、寺に居づらくなった三成は、同村の農民与次郎太夫(以下与次郎と書く)を頼るのだが、これは与次郎がかつて三成に恩を受けたことがあるため引き受けたと言われている。彼は三成を岩窟に隠し毎日食事を届けたのだが、それも長続きはしなかった。村の名主が三成の存在を密かに嗅ぎつけ、役人に報せるぞと与次郎に告げたのである。窮した与次郎は三成に正直に事の顛末を告げたところ、三成は覚悟を決めて井口村(現伊香郡高月町井口)の役人に連絡させたという。

 なお、三成の捕縛地については、
※草野谷(前述)・・・『寛政重修諸家譜』『田中吉政系図』『内府公御陣場覚書』『関原御一戦記』
※草野谷の岩窟(同上)・・・『関ヶ原記』
※脇坂村の葦原(現東浅井郡湖北町)・・・『武徳安民記』
※川合村源右衛門宅(現伊香郡木之本町川合)・・・『庵主物語』
※古橋村の岩窟 or 与次郎太夫宅(前述)・・・『美濃国雑事記』『関ヶ原軍記大成』『石卯余史』
※井口村の農家(現伊香郡高月町井口)・・・『関ヶ原軍記』
※近江北部越前境(現伊香郡余呉町)・・・『細川家記』
 などといった、様々な説があることを付記しておく。


六条河原に散る

 これより先の九月十八日、佐和山城を落とした家康は田中吉政に命じて三成の探索をさせていたのだが、その吉政の元に三成が古橋村にいる旨の連絡が入った。三成と仲が良かった吉政は、三成の顔を知っている家臣の田中傳左衛門(長吉)を派遣する。古橋村に赴いた傳左衛門は三成本人と確認して身柄を確保、丁重に吉政のもとへと護送した。二十一日のことであったという(日付は二十二日とも)。三成は悪びれた様子などはなく、形見にと言って正宗の脇差しを吉政に与えた。吉政も三成と以前の如く接し、馳走の士をつけてもてなしたところ、三成は腹の調子が悪いからと言って韮雑炊を所望して平らげ、その後いびきをかいてぐっすり寝込んだという。
 吉政は三成を大津の家康のもとに送り、家康は三成を本多正純に預けた。ここでもいくつかの有名なエピソードが残されているので、まとめてご紹介する。

 まず、三成と本多正純のやりとり。
 正純曰く、「秀頼公はまだ幼少で事の是非をわきまえておられるはずはない。私心による戦を起こしたがために、このような恥辱を受ける羽目になったのではないか」
 三成も言い返す。「農民に生まれてより一城の主としていただいた太閤の御恩は例えようもない。世相を見るに、徳川殿を討たずば豊家の行く末に良からじと思い、戦を起こしたのである。二心ある者のために、勝つべき戦に敗れたのは口惜しい限りじゃ。さなくば汝らをこのように絡め捕らえておったであろうに、我が敗れたるは天命である」
 正純はさらに「智将は人情を計り時勢を知るという。諸将の一致も得られず、よくもまあ軽々しく戦を起こしたものだ。敗れた上に自害もせず捕らえられたのは如何に」と揶揄するが、逆に
 「汝は武略を知らぬも甚だしい。人手に掛かるまいと自害するのは葉武者のすること。汝のような者に大将の道など、語るだけ無駄というものじゃ」と言い返され、返す言葉がなく赤面したという。

 次に、三成と小早川秀秋のやりとりである。秀秋は三成が捕らえられていると聞くと、細川忠興の制止も聞かず三成の面前に出て行ったのだが、すかさず三成から言葉鋭く罵倒される。「汝の二心を知らなかったのは愚かであった。しかし約束を破り、人を欺いて裏切ったことは武将の恥辱、末世まで語り伝えて笑ってやろう」
 案の定、秀秋もまた返す言葉がなかったという。

 また福島正則が三成の前を通りかかったとき、「無益の戦を起こしてその有様か」と嘲笑すると、三成は「おのれを生け捕って縛れなかったのは天命である」とやりかえしたという。

 さらに、これは後のことであるが、京都市中を引き回されるにあたって、家康は「石田は日本の政務を執っていた者である。小西も宇土城主、安国寺もまた卑賤の者ではない。戦に敗れてこのような姿になろうとも、勝敗は兵家の常であり珍しいことではない。命をみだりに捨てなかったのも大将の心とするところであり、古今に例も多く恥ではない。そのまま市中を引き回せば将たるものに恥をかかせることになり、それは我が恥でもある」と言って三人に小袖を与えたのだが、この時の三成の反応が興味深い。
 三人はそれぞれ小袖を与えられたとき、安国寺恵瓊は何も言わず赤面して俯き、小西行長は「敵対した我にこれまでのいたわり、心に恥じ入る」と落涙したという。しかし三成は「これは誰が与えたものか」と問い、「江戸の上様です」との役人の答えに「それは誰のことだ」と問い返し、「徳川殿」という返答を聞くとあざ笑い、一言も礼を述べなかったという。

 十月一日、三成は小西・安国寺とともに京都市中を引き回された上で、六条河原の刑場へ運ばれた。三成は処刑直前にも、差し出された干し柿を「痰の毒だから」といって断ったという有名な話がある。

 程なく彼の頭上に刀が一閃し、首は胴と離れた。享年四十一歳であった。


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