身分は三成の一家臣でも、その軍事能力は東軍方諸将も認めた島左近。しかし、彼の消息ははっきりとは判っていません。京都と奈良には歿日時の異なる2つの墓が存在します。 |
左近の消息 前述稿の補足の形となるが、関ヶ原合戦の際に三成の前面に二重の柵を設け、左近たちはそれを背に、まさに「背水の陣」の覚悟で戦に臨んだ。その面々を『関ヶ原町史』により少し詳しく紹介すると、三成の笹尾山本陣から見て左端に左近。以下、右へ順に島新吉・同十次郎・大場土佐・大山伯耆・高野越中・舞兵庫・森九兵衛・蒲生備中・同大膳・同大炊・北川平左衛門・同十郎・蒲生監物・近藤縫殿・後藤又助・百々宮内・早崎平蔵・分田伊織・浅井新六郎・中島宗左衛門・香楽間蔵人・三田村織部・町野助之允・馮渡内記・川崎五郎左衛門ら六千である。 戦闘もたけなわとなってきた頃、左近は密かに回り込んできた黒田(菅)隊に側面から銃撃を受け負傷、柵内にかつぎ込まれた。左近は精兵を率いて開戦直後から奮戦、後に黒田家の者をして「もしあの時鉄炮で撃っていなかったならば、今頃我等の首は左近の槍に刺し貫かれていたことだろう」と言わしめたほどであったという。 この画像は『関ヶ原合戦図屏風』(関ヶ原町歴史民俗資料館蔵)に描かれた、負傷して両脇を兵に支えられながら退却する左近の姿である。画像から推察すると、足か腰を撃たれたのではないかと思われる。 ※当画像は関ヶ原町歴史民俗資料館の許可を得て撮影・掲載しています。無断転載は堅くお断りいたします。 ここで、左近の消息について記した書物についてであるが、ざっと紹介すると 「被弾し倒れる」・・・『関ヶ原合戦大全』、『落穂集』、『黒田家譜』、『故郷物語』等 「戦死」・・・・・『関ヶ原合戦誌』、『関ヶ原合戦大全』の一説、『関ヶ原軍記』、『戸川記』等 「生死・行方不明」・・・・・・『関ヶ原状』、『慶長年中ト斎記』、『武徳安民記』等 「対馬へ脱出」・・・・・・『関ヶ原軍記大全』 「西国へ脱出」・・・・・・『石田軍記』 となる。しかし『関原合戦図志』によると、「戦死」説の記述のある『関ヶ原合戦大全』では、「島勝猛ハ黒田ノ家人菅六之助ガウタスル鐵炮ニ當リテ死亡セシト云ヘルハ實事ナルベシ」と、被弾して死亡した旨の記述があるが、その後も左近が三成と応対している様子が所々に見られ、また三成が敗走する直前に左近の死を聞いて悲嘆し、共に討死しようと馬を出しかけたところ、近習たちが三成の馬を押さえて納得させ戦場から離脱させたという話が記載されている。 これはおかしい。左近の推定被弾時刻は午前九時から十時の間で、三成の敗走は「未の刻(午後二時)」前後かそれ以降である。朝に死亡した島左近のことを、わずか二町(約220m)離れた本陣にいる三成が午後二時頃まで知らないなどということは、どう見ても考えられない。 「行方不明」説を採る『関ヶ原状』は、『信長公記』で知られる太田牛一が、この戦いの翌年に著したものである。また『慶長年中ト斎記』は信憑性の高い資料として知られており、同説を採る他書の多くはこれらをそのまま信用したと思われ、前出『関原合戦図志』の著者神谷道一氏は、当時はまだ本格的な研究が進んではおらず、世上に伝えられた「左近は行方不明」との風評をそのまま書いたのであろうと評されている。 つまり、私見ではあるが、左近は朝の被弾負傷時には落命してはいなかった。柵内にかつぎ込まれた左近は、手当を受けた後、再び突撃する機会を待っていたのではないか。 左近の墓 話は戦いからそれるが、近年左近は戦場を脱出して生き延びたのではないかという説が囁かれている。 その根拠は『関ヶ原町史』によると、「慶長八年の合戦図」(典拠不明)において、琵琶湖の竹生島に「十六日夜島左近宿す」との記述があることと、左近の墓(=写真)がある京都市上京区の立本寺教法院(りゅうほんじ・きょうぼういん)過去帳ならびに位牌に、「妙法院殿前拾遺鬼玉勇施勝猛大神儀 島左近源友之」との法名と、寛永九(1632)年六月二十六日に歿したとする記録が残されていることが主なもののようである。 この立本寺は日像上人を開山とする日蓮宗一致派の本山で、元亨元(1321)年に中京区四条大宮に創建され、後土御門天皇から勅願寺の綸旨を賜ったと伝えられる名刹である。同寺はいわゆる「天文の法乱」後に三回ほど移転し、天正年間に上京区寺町通今出川に移された。しばらく同所にあったが、宝永五(1708)年に火災で類焼し、現在の地に移されたという。 左近の墓が建てられた時期は判らないが、死後すぐに建てられたとするなら、それは寺町通今出川の地ということになり、移転の際に寺とともに現在地に移されたものであろう。 さらに同町史では、左近の末裔の方が蔵する古記録に「島左近勝猛 又ノ名ヲ友之ト云フ (中略) 関ヶ原ノ役ニ謀士ノ長トナリ、戦ニ敗レ、囲ヲ衝キテ奔ル、後、京都立本寺ニ隠レ、寛永九申壬年六月二十六日歿ス 妙法院殿前拾遺鬼玉勇施勝猛大神儀」なる記述があることを紹介し、併せて同書に母と共に京都にいた左近の二男彦太郎忠正が関ヶ原の敗報に接し西国へと逃れ、坪島彦助と改名して安芸西条四日市に住んだとあることも紹介している。 もしこの通りだとすると、左近は関ヶ原の後三十年以上を生きたことになり、歿時の推定年齢は九十歳前後にも達するかと思われる。しかし、その間何の記録も残されていないというのは、いくら徳川の世とは言え腑に落ちない部分があり、やはり現時点では左近の消息については不明と言わざるを得ない。左の写真は立本寺教法院に残る左近の位牌だが、これは明らかに後世に作られたものである。 ここで左近の年齢について少し言及すると、『和州諸将軍傳』には彼の生年月日の記述が見られ、それによると左近は天文九(1540)年五月五日生まれとされている。その説に従うならば関ヶ原では61歳ということになるが、同書の信憑性にはやや問題があることから、残念ながらはっきりと断定出来るまでには至らない。ただ永禄年間から筒井順慶のもとで活躍したことを考えると、これくらいの年齢であったのは事実であろうと思われる。 ところで、左近の墓はやはり大和にもあった(=写真)。この墓は奈良市の三笠霊苑東大寺墓地(通称伴墓)にあり、昭和五十七年に田原本にお住まいの郷土史家が発見したという記録が残っていたことから、平成四年に元奈良市長(故人)が調査確認されたものであるという。中央が左近の墓で、これは「舟形五輪塔」と呼ばれる形式のものだそうである。大きさは縦82cm×横35cm×厚さ10cmで、中央に「嶋左近尉」、その右には「庚子」、左には「九月十五日」とある。つまり言うまでもなく、この墓は左近が合戦当日に歿したということを示しているのだ。 問題はこの墓の建てられた年代だが、五輪板碑の形状や傷み具合などから、室町末期から江戸初期頃の特徴があるとされ、関ヶ原合戦からさほど遠くない時期に建てられたものであろうとのことである。 こうなってくると、左近は果たして生き延びたのか、それとも関ヶ原に散ったのか、ますます判らなくなってくる。 この他にも対馬の島山(長崎県美津島町)や陸前高田市の浄土寺にも左近の墓と伝えられるものがあり、対馬の墓は こちら に別に画像を掲載しているのでご覧頂きたい。 さらに、左の写真は大阪市淀川区の木川墓地にある左近の供養墓で、これは昭和九年に左近の末裔である島吉次郎氏が、先祖の島清兵衛翁の五十回忌に際して建てられたものという。 同墓地内には左近の妻の一人とともに大坂に逃れてきた娘の子と伝えられ、江戸時代初期に中津川(淀川)の治水事業に多大な功績を残した島道悦忠次(1611〜1654)の墓があることで有名であるが(同墓地には島氏一族の墓もある)、供養墓とは言え左近の墓がここにもあることはあまり知られていないようである。 墓の下部正面には三行で「五十回忌供養 島左近之墓 次男吉次郎建之」、墓横に立つ碑には二行で「島清兵衛五十回忌 昭和九年七月為菩提 次男吉次郎」と刻まれてあり、一般刊行物ではあまり目にすることのない画像なので、参考までに掲載させていただくことにする。 墓の話はこれくらいにして、話を合戦時に戻そう。 |