後世に語り継がれる長谷堂城の大激戦。上杉家の重鎮直江兼続は苦戦しながらも最上義光勢の追撃を食い止めて撤兵に成功、会津に戻ります。しかし、そのとき関ヶ原では・・・。 なお、当稿の内容は上杉景勝特集の稿と重複することをあらかじめお断りさせていただきます。 |
兼続、最上領へ侵攻 さて、会津の上杉景勝討伐へ向けて軍を進めていた家康は、小山で三成挙兵の報を聞き即座に軍を返した。下野まで出張って構えていた兼続は、家康が引き返すと同時に只一騎で長沼の景勝の本陣に馳せつけた。 ちょうどこの時、米沢城の留守を守る兼続の父樋口兼豊から、義光が秋田実季らとともに志駄義秀の守る酒田城を攻めようとしていることを報じてきたため、景勝は兼続に最上領への侵攻を命じた。兼続は九月三日に会津から米沢へ戻り、早くも九日には自ら二万四千の軍を率いて進発、同時に庄内側からも志駄義秀・下吉忠の三千が最上領へ侵攻した。 十三日、兼続は色部修理を先手として最上領畑谷城へ攻めかかり、激戦の末に城将江口道連は自刃、首五百を獲て城を落とす。さらに援軍に駆けつけた最上勢(飯田播磨・矢桐相模)を粉砕、引き続き山野辺・長崎・谷内・寒河江・白岩の各城を抜き、義光の本城山形城以外は、残すところ志村光安・鮭延秀綱の拠る長谷堂城のみとなった。 九月十五日、孤立して窮した最上義光は、北ノ目城にいる伊達政宗に使者と嫡子義康を送り援軍を依頼するが、政宗は叔父の留守(伊達)政景を名代とし、鉄砲隊七百、五百余騎を預けて派遣するに留まった。そして同日、兼続は志村光安らの籠もる長谷堂城に迫り、城を包囲したのである。ここで日付に注目いただきたい。そう、九月十五日。この日関ヶ原では東軍が西軍をあっという間に破り、大谷吉継は自刃、島津義弘はかろうじて戦線離脱、三成は伊吹山中へ逃げ込むという結末を迎えるのである。 そうとは知らない兼続は長谷堂城に総攻撃を掛けるが、激戦の中に名将上泉主水正泰綱(憲元)を失い、頑強な抵抗に手間取って膠着状態となってしまう。そんな中の二十九日、会津の景勝のもとに関ヶ原における西軍の敗報が飛び込んできた。景勝はただちに兼続に連絡、兼続は間髪を入れず城の包囲を解き、十月一日から全軍の撤退を開始した。 関ヶ原の報に接した最上義光は俄然勢いを盛り返し、当然の事ながら追撃戦に出た。ここに退く兼続と追う義光の間に、まれに見る大激戦が演じられた。これを世に「長谷堂城の戦い」と呼ぶ。 長谷堂城の戦い 急ぎ撤退した兼継と追撃に出た最上・伊達勢は、須川でまた大激戦を演じた。この際の戦死者の数は、上杉側の記録では最上方二千百、最上側の記録では自軍六百二十三、上杉方千五百八十というから、多少の誇張を考慮しても、まれに見る大激戦であったことは疑いない。そして、この退却時の殿軍を務めたのが、「戦国の傾奇者」で名高い前田慶次と水原親憲である。 兼続は執拗に食らいついてくる最上勢に手こずり、なかなか思うような退却が出来ない。と、その時のこと、彼がいら立って悔しがっていたところへ前田慶次が駆けつけ、その馬前に立ちはだかった。兼続に代わって殿軍を引き受けた慶次は、鉄砲隊を率いて最上勢をくい止めていた水原のもとへ駆けつける。すぐ前は敵陣で、正に「にらみ合い」といった表現のふさわしい緊張した空気が張りつめていた。 水原鉄砲隊の援護射撃を得て慶次は大身の槍を手にさっと馬から飛び降り、「朱槍の勇士」として知られる水野藤兵衛・韮塚理右衛門・宇佐美弥五右衛門・藤田森右衛門の四人を率いて駈けだした。慶次らは縦横無尽に働き、水原の援護射撃も敵に打撃を与えた。敵大将最上義光も兜に銃弾を受け、命は落とさずに済んだものの、篠垂(兜の一部)が吹き飛ばされるほどであったという。 こうして慶次らの活躍で、兼続はなんとか十月四日に米沢へ帰り着くことに成功した。しかし、もはや大勢はどうしようもなく、景勝は兼続とともに会津で事態の成り行きを見守った。 玉砕か、降伏か。景勝は熟考の末、降伏の道を選んだ。家康の策士本多正信から、上杉家の伏見留守居役の将・千坂対馬守景親を通じて降伏の労をとろうと申し入れがあったことも、景勝に決断させた要因のひとつだったかもしれない。兼続はこの機を逃さず結城秀康に取り入り、翌慶長六(1601)年八月十六日、意を決した景勝は兼続を伴い、大坂城の家康のもとへ伺候する。 上杉家は改易は免れたものの、同月二十四日付けで会津百二十万石から米沢三十万石へと減封され、景勝は十一月二十八日に米沢へ入った。ここに景勝・兼続の「関ヶ原」は、その幕を下ろしたのである。 |