岐阜城の戦い
〜織田秀信の関ヶ原2〜

岐阜城に追いつめられた秀信は、攻め寄せる東軍に果敢に立ち向かおうとはしますが、援軍の望みもなく、わずか一日の戦いで降伏してしまいます。


正則と輝政

岐阜城遠望  岐阜城に追いつめられた秀信は八月二十二日夜、大垣城と犬山城に救援要請を飛ばし、軍評定を開いて諸将の持ち場を定め、援軍到着までそれぞれ死守するよう命じた。本城は秀信と異母弟秀則が守り、稲葉山・権現山砦は松田重大夫、瑞龍寺山砦は河瀬左馬之助ら。総門口には津田藤三郎、七曲口には木造具康父子。御殿・百曲口は百々綱家ら、水の手口には武藤助十郎らという面々である。写真は岐阜城の遠望(中央に小さく見えるのが天守)であるが、ここは現在のJR岐阜駅から北東へ約4kmの金華山山頂にある。

 一方東軍では、先鋒の二将・福島正則と池田輝政の間にちょっとした悶着があったのだが、この両者、どうも気が合わないようだ。そのいきさつはこうである。
 福島正則は、尾張海東郡花正庄二寺邑(現愛知県海部郡美和町二ツ寺)の住人で、後に秀吉に仕えた市兵衛尉正信の子とされる。正に猛将の名にふさわしい人物で、賤ヶ岳の戦いを始め、数々の戦いで活躍している。性格的には粗暴というより直情型で人情味があり、「失敗もやらかすが憎めない殿様」といった感を受ける。事実家臣の統率力は素晴らしく、その軍勢は実に強かった。一方、池田輝政は長久手の戦いで戦死した勝入斎恒興(信輝)の二男で、織田信長と乳兄弟だった父や兄とともに信長に仕え、荒木村重の謀反の際には花隈城攻略戦で大功を立てている。また秀吉の執行した大徳寺での信長の葬儀では、棺の一端を抱えて行進した人物である。したがって家格としては秀吉が政権を握るまでは同格かそれ以上で、一説に「どこの馬の骨かとも判らない」「桶屋の倅」と言われる正則とは比較にならず、このあたりに正則の劣等感があったのかもしれない。年齢は当時正則四十歳、輝政三十七歳である。

 さて東軍はこの一連の戦いの始まる前、清洲において岐阜城攻めの段取りを、正則は起(おこし=尾越)渡から岐阜城大手口へ、輝政らは河田渡から搦手口へ、狼煙を合図に「同時に」攻め入ろうと定めていた。ところが輝政の家臣の伊木清兵衛が地元ということもあり、川の深浅に通じていたので先導役を買って出、狼煙を待たずに瀬に踏み入ったことから、輝政勢の諸将が遅れてはならじとばかり渡河を開始してしまったのである(異説あり)
 一方の正則勢はというと、予定していた尾越渡付近の西軍方の防御が堅固だったため、さらに下流の加賀野井城(現岐阜県羽島市加賀野井)対岸まで南下、合図を今や遅しと待っていたところ、狼煙が上がる前にはるか上流から銃撃音が聞こえてきた。これで正則は「輝政め、約を違えたか」と逆上してただちに渡河を開始、猛烈な勢いで竹鼻城を抜く。そして茜部村まで軍を進めた正則は輝政に使者を送り強硬に抗議するが、本多忠勝や井伊直政が中に入り正則をなだめるという一幕があったという。さらに彼は岐阜城落城後にも、その戦功をめぐって輝政と口論に及び、一触即発の状態になっている。このように正則には逸話が多く、ここはこれくらいにして別稿で触れることにする。


岐阜城の戦い

岐阜城天守閣  八月二十三日朝、東軍は総攻撃を開始した。犬山城への押さえとして新加納村・長塚・古市場に山内・有馬・戸川・堀尾らを、大垣から来援した西軍勢については田中・藤堂・黒田の諸将を長良川右岸の河渡に向かわせ、瑞龍寺山砦へ浅野幸長らが攻め上った。続いて井伊直政が稲葉山・権現山砦へ、大手口へは福島正則らが殺到する。もはや秀信勢は何の抵抗もできなかったと言って良く、あっという間に諸砦を落とされて本城を包囲されてしまった。犬山城からの援軍もついに来なかった。写真は秀信最後の牙城となった岐阜城天守閣(本丸)である。
 秀信は自刃しようとするが、池田輝政らの説得もあって思いとどまり、降伏下山して上加納の浄泉坊(現円徳寺)に入った。秀信はここで武具を解き剃髪して尾張知多へと送られ、関ヶ原合戦終結後に高野山へと向かう。余談だが、岐阜市神田町の円徳寺には秀信の画像と、彼の着用と伝えられる烏帽子型兜が現在も残っている。
 降伏した秀信の処遇について、東軍では助命はいかがなものかという声も上がったが、福島正則が助命を主張した。『改正三河後風土記』に次のようにある。

「我等は織田家へ荷担すべき筋目にあらずといへ共、さすが信長の嫡孫也。味方にも旧好恩顧の輩なきにもあらず。むざむざと死罪に行はんも情なし。降参ある上は助命せずばあるべからず。もし此事内府の心に応ぜずば、正則が此度の骨折を無にせんより外候はず」

 最後の文言が彼らしい。「助命したことが家康の不興を買うならば、自分の今までの戦功と引き替えにするだけである」・・・直情型の面目躍如たる話である。かくして岐阜城は、わずか一日であっけなく落ちた。秀信は関ヶ原の戦いが終結後に尾張知多から高野山へ向かって出家し、五年後の慶長十年五月八日、まだ二十六歳の若さでこの世を去った。秀信には子がなかったため、ここに戦国の革命児・信長の嫡流は途絶えた。


INDEX NEXT(河渡川の戦い)