発見!! 島左近母の位牌
左近のもの?妻のもの?母のもの?平群町安養寺に残る位牌の謎に終止符!

ここでは左近に関して新たに発見・判明したことを臨時稿の形でご紹介します。なお、この内容は後に再編集され別項に移行します。


 謎多き島左近の事績を語る上で貴重な物証となる、ひとつの位牌。奈良県平群町の安養寺(現在は無住職)に残るとされていた位牌については、従来「島左近の位牌」「左近妻の位牌」「左近母の位牌」などと諸書に見え、どれが正しいのかは実地調査しない限りわからないという状況にあった。
 そこで昨年八月、一連の「徹底追跡」の稿を進めるにあたって安養寺様と連絡を取り、調査にお邪魔させていただいた。同寺には過去帳が残っていないため、現物を確認する以外方法はない。しかし本堂をくまなく探したにもかかわらず、位牌は見つからなかった。必ずあるはずなのに、どこへいってしまったのだろうか。紛失してしまったのだろうか。こういうわけで位牌は確認できず、やむなく先達の残した文献を参考にさせていただくことにした。

 ところが、困った問題が起きた。この位牌については過去に平群史蹟を守る会の重鎮お二方が別個に調査されているのだが、それぞれ「嶋左近内侍」「嶋佐近頭内儀」と結果が異なるのである。「内侍」なのか、それとも「内儀」なのか。本来ならばこのお二方に直接お話を伺うことができれば良かったのだが、残念なことに昨年の調査時点でお二方とも他界されており、加えて写真を残されておられなかったため、現物が見つからない以上はどうしようもなかったのである。
 そして町教委と相談の上で「内侍」説を取りあえず採用したわけであるが、結果的にこれは誤りであった。

 やがて一連の稿は今年六月に取りあえず完結し、八月四日に一冊の書籍「平群谷の驍将 嶋左近」となって刊行された。そして九月六日、産経新聞同日付朝刊紙上(奈良版)に同書の紹介が掲載されたのだが、これがきっかけとなって事態は動いた。

「嶋佐近頭内儀」位牌  偶然左近の新聞記事を読まれた安養寺様の方で今一度寺内をくまなく探されたところ、所在不明だった位牌が見つかったのである。ただちに町教委へ連絡が入り、さらに私のもとへも連絡が届いた。こうして再調査のお許しを得た九月十七日、私と町教委のM氏とで再びお邪魔させていただくことになったのである。
 写真は位牌の両面を一枚の画像にしたもので、むろん初公開である(公開許可済)。黒漆塗りで大きさは総高44cm・脚部幅15.4cmとやや大きめのサイズで、正面には「安養寺殿安耀真栄大姉」、背面には「天文十八年九月十五日 嶋佐近頭内儀」とはっきり記されており、位牌の謎についてはここに終止符が打たれた。

 「嶋佐近頭内儀」とあるからには「嶋佐近頭」なる人物の妻であり、また当時「嶋佐近頭」が生存していたわけである。天文十八年という時期から先代左近(佐近頭)の妻、すなわち実母か継母かは不明だが左近清興の母と考えるのが妥当であろう。下垣内城の入口に隣接する安養寺は福貴寺庄を領した嶋氏の所領内に位置しており、この時期に嶋氏が在地していたことは間違いないと思われる。

 既にお気づきかと思うが、「嶋佐近頭内儀」の没した51年後の同じ日、関ヶ原合戦が起こる。もし左近が関ヶ原で戦死していたならば、母と同じ日に黄泉へ旅立ったことになる。これも歴史の偶然なのだろうか・・・。
 こうしてまた一つ、左近にまつわる謎が解けた。今回発見された位牌は、左近の大和出自説を裏付ける数少ない傍証(物証)の一つとなることは明らかである。さらに一世代前にも「佐近」を名乗る人物がおり、従来軍記物など信憑性に問題のある史料にしか認められなかった「嶋氏は代々左近を名乗った」ということが、位牌という現物から確認されたことになる。しかし、なぜ「左近丞」ではなく「佐近頭」なのか。左近の謎はまだまだ多い。

 最後になりましたが、貴重な情報をお寄せいただき、また調査・公開に際して温かいご配慮をいただいた安養寺様には、この場を借りて厚く御礼申し上げます。

※安養寺は現在無住職です。この件についてのお問い合わせ等は今後平群町教育委員会 (0745)-45-2101 までお願いいたします。
 取材協力:安養寺/2002年9月18日記 文責:Masa 画像を含めた当稿の無断転載および引用を禁じます。


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