永禄十年十月十日、松永勢と三好・筒井勢による兵火のとばっちりで東大寺大仏殿が炎上焼失する事態が起きますが、ここではその状況を少しご紹介します。 |
放火か失火か 前稿の「庄屋」乱入事件のあった永禄十(1567)年六月といえば、松永久秀は筒井氏・三好三人衆等と南都で交戦中であった。そしてこの年の十月十日、南都東大寺の大仏殿が兵火により炎上焼失するという事態が起こる。これは全国的にも知られていたようだが、左近清興がこの戦いに参加していたことを示す記録は見あたらない。本稿の主題とは外れるが、この点について少しだけ付け加えておくことにする。写真は東大寺の遠景で、西側に位置する奈良県庁から撮影したものである。 東大寺大仏殿炎上の経緯については様々な説があるが、一般的には松永久秀が焼いたとするものが多いようである。これは『信長公記』(巻十の九・信貴城攻め落さるゝの事)に 「奈良の大仏殿、先年十月十日の夜炎焼。偏に是松永の云為を以て三国隠れなき大伽藍事故なく灰燼となる。(中略) 日比案者と聞へし松永、詮なき企して己れと猛火の中に入り、部類・眷属一度に焼死、客星出来、鹿の角の御立物にて責させられ、大仏殿炎焼の月日時刻易らざる事、偏に春日明神の所為なりと諸人舌を巻く事」 と明記されているため、この影響を受けているのかもしれない。文中に「鹿の角の御立物にて責させられ」とあるのは、当時鹿は春日社の神聖な使いと信じられており、その鹿の角を立物にした兜をつけた武将(総大将の信忠か)に攻め滅ぼされたのは、先年東大寺を焼いたことに対する春日明神の怒りであるとしている。他にも有名な話として 「(前略) 東照宮、信長に御対面の時、松永弾正久秀かたへにあり。信長、此老翁は世人のなしがたき事三つなしたる者なり。将軍を弑し奉り、又己が主君の三好を殺し、南都の大仏殿を焚たる松永と申者なりと申されしに、松永汗をながして赤面せり」(『常山紀談』巻四の二十三 第八十九話) というのもあり、また『佐久間軍記』にも「東大寺を焚大仏ヲ滅モ十月十日也」と見える。しかし、果たしてそうだったのであろうか。 裏切られた織田氏にとっては久秀は許し難い人物であり、少々悪く書かれるのは致し方ない。しかし大和側の資料では、これについて以下のようにある。 「一 今夜子之初點より、大佛ノ陣ヘ多聞山より打入合戰及數度、兵火の余煙ニ穀屋ヨリ法花堂ヘ火付、ソレヨリ大佛ノ廻廊ヘ次第ニ火付テ、丑剋ニ大佛殿忽焼了、猛火天ニ滿、サナカラ如雷電、一時ニ頓滅了」(『多聞院日記』) 「(前略) 三好殿被押寄。東大寺ノ大佛殿ヲ。本陣二被仕着陣申サレ候。夜久秀夜軍ニ被仕懸候故三好敗北ニテ數多討死仕候。其時不慮ニ鐵炮ノ藥ニ火移。大佛殿其外堂塔炎上仕候」(『大和記』) 「(前略) 久秀是ヲ聞夜討ニ馴レシ兵五百余人ヲ率シ多門城ヲ出、亥ノ上刻ニ大佛殿ニ夜討シテ遂ニ切勝追ヒ崩シ、鎗中村兄弟ヲ始メ六百余人ヲ討取ル。此時三好方アハテテ防キ戰シニ篝火數多焼捨置ケルカ、三好方ノ鉄炮ノ藥ニ火移リ、折節寒風ノコトナレバ大殿講堂中門兩西門回廊等悉ク火トナリニケリ。松永久秀火ヲカケ大佛殿等ヲ焼亡セント世間ニ云フ説ハアシヽ、審ニ考フヘシ」(『和州諸将軍傳』句読点は後補) 他にも「此時不慮に鉄炮の薬に火移りて大きに燃へ出」(『陰徳太平記』)、「あやまりて火もえ付き」(『足利季世記』)とするものもあり、フロイスの『日本史』では仏教に敵意を持つ一人の勇敢な「キリシタンの兵士」を犯人としてあげ、久秀の所行ではないとしている。諸書の記述を見るに、私にはどうやらこちらの方が真相を伝えているように思われる。つまり東大寺大仏殿は久秀が意図的に焼いたのではなく、三好方で起きた不慮の事故によるものであったと見たい。 |