詳細・並松の戦い
その頃松永久秀は六十歳、息右衛門佐久通は二十七歳であった。五畿内ならびに紀伊にて父子合わせて三十万石余を領し、大和信貴山・多聞山両城に交替で在城して大和一国を手に入れるべく謀略をめぐらせていたが、筒井氏が日々勢力を巻き返しつつある状況を見て歯がみをしていた。
この上は筒井城に押し寄せ一戦に勝負を決して同城を攻略しようと、大和の麾下逢坂城主岡周防守國高・古市城主左近景治・菅田備前守豊春・高山主殿頭廣頼らを率い、多聞山には東大寺衆と番衆八百人、信貴山城には同衆に龍田・龍野の社人ら千余人を在番させ、摂津高槻城主で久秀の叔母婿入江左衛門尉盛重・その子大五郎政重・岩成小次郎春之・片岡城主海老名兵衛尉友清・同従弟助九郎友久・河内平野城主森兵助正友・甥で狭山城主藤五郎正次・同弟藤九郎正之ら大和の麾下と合わせて七千余人にて、永禄十二年春三月九日に法隆寺まで出陣した。先陣は岡・高山・古市ら千余人、二陣は久通・海老名ら二千余人、後陣は久秀・入江大五郎ら二千余人で、これとは別に入江・森らの精兵二千余は弓鉄砲を構えて法隆寺内に伏兵として配置、寺内衆五百余も加わって控えていた。
これを麾下からの早馳けで知った順慶は、三老や麾下の国人衆に「道のりが遠いのは言うまでもなく、近くの麾下衆には病を患う者も多く兵力も少ない。しかし強敵の松永を放っておくわけにはいかない」と告げ、飯田三郎次郎真宗を留守代として、高取城主越智玄蕃頭利之・箸尾宮内少輔高春がわずかで在番していたのを率い、筒井左門順國・嶋左近友之・松倉右近勝重・森志摩守好之清須美右兵衛尉盛時らを先手とし、三千余人にて筒井より西・栴檀木村という所まで出陣した。これが十日朝寅の刻の頃で、西からは楢原城主右衛門尉光之が千余人を率いて駆けつけた。筒井衆は力を得て先陣は嶋左近・松倉右近の千余人、二陣は楢原の千余人、順慶を守るのは越智・箸尾・慈明寺・森・清須美らの旗本二千余人である。時に順慶二十一歳であった。
十一日の未明、両軍は法隆寺並松にて寄せ合い、互いに鬨(とき)を作って筒井の先陣嶋左近・松倉右近と久秀の先陣岡・古市・高山が激突、火花を散らして斬り結び、やがて退いて暫くは人馬の息を継いでいたが、両軍とも負傷・討死する者が多かった。筒井勢の二番手として楢原右衛門が千の兵を率いて駆け出すと、松永右衛門がこれを見て「敵は小勢である。余さず討ち取れ」と、海老名兵衛とともに二千余の兵をもって包囲し攻め立てた。楢原は二十三歳、血気の若武者で少しもひるまず、半月の立物に楢原連錢という名馬に乗り、大長刀を左脇に挟み采配を振り下知しつつ縦横無尽に暴れ回る。そして長刀で敵十余人を薙ぎ倒したので、松永勢は少し退却した。
右衛門久通は楢原の後陣へ切り込み雑兵を斬り捨て追い散らしたので、楢原の兵が裏崩れしたと見えた筒井勢は色めき立った。そこへ嶋左近と松倉右近が精兵百余を率いて駆け出し、久通を包囲して猛烈に攻め掛かった。久通は慌てず戦っていたが、どうしたのか馬が倒れてすでに討ち取られたかと見えた。そこへ久秀本陣より海老名介九郎・岩成小次郎が救援に駆けつけ、嶋・松倉勢を斬り払い、久通を馬に掻き乗せて退却した。これより松永方は乱れ立って信貴山下まで逃げていったが、久秀はわざと一戦もせず、旗下の一隊は閑路に退却した。左近は松倉と目配せし、久秀の退却の仕方は不審であると馬を控えて進まなかったが、楢原らの若衆らはこれを追い二百余人を討ち取った。筒井本陣も堅く守っていたが、これを見た慈明寺・清須見らの若衆が抜け駆けして行ったため、久秀方の百余人を討ち取ったが本陣が手薄になった。
その時、法隆寺内に潜んでいた久秀方の入江左衛門・森兵助ら二千が頃は良しと一斉に起ち、順慶の本陣に襲いかかった。油断していた上に小勢でもあり、筒井勢は二百余人を討たれ乱れた。箸尾宮内が兵三百で防戦する一方、越智と森は順慶を包んで守り退却する。ところが行く手に法隆寺の大衆五百が道をふさいでいて通れず、越智玄蕃が百の兵を以て戦い、何とか順慶を退却させた。拙い戦をした順慶は、討死するもよしと正宗の刀を抜き払って馬を引き返す。森好之は激怒し敵兵五・六人を斬り倒し、順慶の馬の口を押さえて「大将がそんな戦いをされるものではありませぬ」と連れ戻し落ちていった。ところが筒井城は松永方に攻められており入城できず、無念であったが森の指図に従って順慶は宇陀郡へと落ちていった。筒井の先陣・二陣は順慶討死と聞いて結局は総敗北となり、九百余人が討たれ、手負いは千余人に及んだ。
(『和州諸将軍傳』)
島左近、筒井順慶に献策
筒井順慶と松永久秀が大和で争っていたときのこと。順慶は龍ノ市の井土十郎と協力し、久秀に反抗した。久秀は信貴山城より一万余りの軍勢を出して井土を攻めるが、彼は堅固に城を守って屈しなかった。そこへ筒井順慶が宇多郡から十市・越智氏らとともに来援したため、松永勢は城に押さえを置き、筒井勢に攻め掛かり合戦となった。井土も城戸を開き一斉に攻め立てたので、松永勢は支えきれず多聞山城へと逃げ出した。ところが本道は筒井方に塞がれていたため通行できず、南都の南・京終(きょうばて)という脇道に入り町屋に放火、煙りに紛れてようやく多聞城へ逃げ込んだのだが、その時多くの兵が討たれてしまった。
順慶は即刻多聞城へ押し寄せて攻めようとしたが、島左近・松倉右近両人が言うには、
「今すぐ多聞城に押し寄せても、すぐに落ちるとは思えません。功を急げば後々難儀が降りかかるやも知れず、ここは一つ、この辺りに城を築きしばらく御滞在され、信長公に御味方なされて後詰をお願いされますよう」
順慶は明智光秀を通じて信長の了解を得、小城を築いて久秀と対峙した。久秀は順慶の思惑を知って自身も信長に随身するが、やがて信貴山城に滅ぶ。
(『大和記』)
島左近、根来的一坊を討ち取る
天正十三(1585)年三月、秀吉の紀州征伐時のこと。左近は筒井定次勢の中にいたが、紀州の荒法師・的一坊は秀吉勢を数多く討ち取り、筒井定次の家臣井土五郎・小泉四郎らと戦っていた。これを見た定次は先祖の武功を顕すのは今と大声で下知し、真壁与十郎・宇田切三郎・飯田祐右ヱ衛門・楢原右助・松倉右近・森縫殿を従えて的一坊に斬りかかっていった。半刻ばかり戦ううちに、嶋左近が的一坊の手から鉄棒を引ったくる事に成功、これに力を得た筒井の勇士たちが手取り足取り的一坊に組みついて引き倒し、ついにその首を掻き切った。
(『根来焼討太田責細記』 ※他書ではこれを子の新吉の活躍とするものもある。)
左近、筒井家を去る(1) 原題「島左近去伊陽」
慶長元年の夏、伊賀国は干魃の被害に遭った。川の流れも尽きて早苗も枯れ、諸民は大いに愁嘆して神仏三宝に雨乞いをし、岩間に漏れ出る一滴の清水も無駄にすまいと夜も寝られぬ有様であった。さて当国を流れる久米川には二ヶ所の井手があったが、上井手は浅宇田(あそうだ)の田にかかるもので中坊飛騨の領地であり、下井手は木興(きこ)の里の田にかかるもので島左近の領地であった。
このため上井手を塗りたてて一滴の水も漏らさないようにしたため、下井手の木興村には水が回らず田は干上がってしまった。途方に暮れた木興村の百姓たちはこれを領主の左近に訴え、これにより左近は中坊に使いを出した。中坊方にもう少し井手を延ばしてこちらにも水を落としてくれるよう頼み込んだが、中坊は自領内の百姓が困るからと応じる気配はなかった。このため左近は立腹して中坊に遺恨を抱き、浅宇田の上流八町の青木というところに新たに井手を築いて木興村へ水を流した。自領の田に水が回らなくなった中坊はこれを怒り、古例を破り他領の百姓を苦しめるものと主君定次に訴えたところ、定次は「左近のわがままな行為は聞いておらぬ。これは上を侮るものであり不届き至極である」と決めつけ、急ぎその井手を破却するよう裁断を下した。
そんな折り、祈りが通じたのか沛然として雲が巻き起こり大雨が降って水不足が解消されたため、この問題は自然と立ち消えになった。しかし左近は主君定次が理非を明らかにせず、依怙贔屓により一方的に左近の行為を咎めたことに恨み骨髄に徹し、ここに定次のもとを離れるべく決意するに至った。このことはかねてより佐和山の石田三成に通じていたが、三成は逆謀の企てがあったので一人でも味方が欲しいところであった。殊に左近は知勇兼備の強勇でもあり、三成は所領四万石のうち二万石を割いて懇志を加えて左近を招いた。左近は速やかに伊賀を去り、傍輩で予野村の吹井藤七郎を伴って佐和山へと奔った。
(『参考伊乱記』 ※『新編伊賀地誌』では、ほぼ同じ話を天正年間の出来事としている。)
左近、筒井家を去る(2) 原題「嶋左近父子退去伊州上野」
天正十六年二月七日、侍従定次の一大老臣嶋左近藤原友之父子は伊賀上野を去り、南都興福寺の内持宝院に遊居した。この寺は嶋氏代々の寺で嶋・松倉・森は筒井の三老であるが、特に左近は筒井氏と累世一族麾下であり、父左門友保は順永法印より七代の家臣であった。
天正十三年の定次の伊賀移封に従って上野城代となった左近だったが、定次の取り巻きである桃谷・松浦・河村と合わず、彼らもまた左近を疎んじていた。翌十四年三月七日に松倉右近勝重が没し、嶋左近父子・森縫殿助・中坊左近および二人の子九市郎重政・十左衛門重宗に遺言した。その内容は「定次の非を諫めるべきである。度々諫めてもお聴きにならないときは、機を見て筒井家を去るべきである」というものであった。右近勝重の没後、左近は只一人定次の色欲の溺れを諫め政道の非を正してきたが、桃谷國仲は信長の末娘である定次妻秀子の女佐の臣で、日頃よりその威を振りかざし左近の功が高いのを妬んでいた。松浦・河村は定次に色酒の遊びを勧めるため、左近は彼らを憎んで除こうとし、二人は左近を定次に讒言して去らそうとしていた。
こういう中、翌十五年二月には清須美右兵衛・森縫殿助が没し、三月九日には松倉兄弟が名張を去った。これは左近父子らの内諾があってのことという。そして十六年二月五日の夜、左近は中坊左近秀行の屋敷へ行き、酒を酌み交わして話し合った。左近は中坊に言う。
「私が数回に渡って侍従(定次)の淫を諫めたことはご存じであろう。侍従は勇ありと言えども身を守り国を治めることは下手で、さらに不義の臣どもが私との間を隔てている。だから私は近日立ち去ろうと思っている。惜しいかな、筒井家は当代で滅びるであろう。私が去れば侍従の非を諫めるのはあなた一人、引き続き侍従を助けて非義の臣を追い払ってくれ」
左近が落涙すると、中坊もともに涙を流して言う。
「私もそう思う。あなたが去れば南都に牢居して伊州の役を止めるべきだ」
こうして左近は上野を去る決意をしたが、嫡子新吉政勝や二男新助友勝その他郎党は、立ち去るならば奸臣佞人らを皆討ち果たしてから白昼堂々と隊列を組んで去るべきだと言う。左近は「若輩にはわからないことだ」と笑って五百人を少しずつ分けて先に送り出し、七日の夜に譜代男女三十人にてひそかに上野を立ち退いた。
筒井の家運は誠に危なくなった。翌日これを聞いた定次は驚きかつ悔やんだが後の祭りであった。伊賀の諸士は密かに囁きあったが、桃谷・河村・松浦らは手を打って喜んだ。
(『和州諸将軍傳』より抜粋要約)
左近、借金に成功する
左近が筒井家を辞して浪人し落魄していた時のこと、彼は持ち合わせの金もなく生活に困っていた。ところで吉野の辺りにとても裕福な親族がいたのだが、生まれつきケチな人物で、困っている人を助けようなどという気はさらさら持ち合わせておらず、度々左近は借金を申し込んだのだが承諾してはくれなかった。
そこで彼は一計を案じ、弁の立つ者を使に立てて遣わせ、こう言わせた。
「この度少し金が必要につきお借りしたく思うのですが、無理にとは申しません。親族の誼をもって貴家の為に申し上げます。そもそも財宝を人に惜しみなく分け与えるような人の家は子孫は長く栄え、悪事の起こるようなことはありません。しかしそうしない人には災害はほど近く訪れることでしょう」
これを聞いた親族の者はもともと貪欲な性格の持ち主だったので、この言葉に騙されて信用し、早速左近に金を貸し与えたという。
(『名将言行録』 原典『雨窓閑話』)
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