年次 | 日付 | 事績
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永禄九
| 五月二十六日
| 福生院の主が、「私の甥で今年二十五歳になる嶋の庄屋殿は最近羽振りが良い(裕福である)」と多聞院英俊に語る。
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| 六月一日
| 大安寺南大門前で郡山衆(筒井方)と多聞山衆(久秀方)による合戦があり、両軍数名の戦死者が出る。
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| 六月八日
| 筒井平城が和議により落城、筒井勢が松永方から同城を奪還する。
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| 八月九日
| 三好三人衆の兵千余が片岡まで出陣する。
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| 九月二十五日
| 筒井藤政(順慶)が五千の兵を従え上洛、西手掻(現奈良市手貝町)で多聞山衆と山田・井戸衆の間に合戦があり、多聞衆が少々討ち取られる。
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| 九月二十八日
| 筒井藤政が成身院にて得度、陽舜房順慶となる。
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永禄十
| 四月五〜六日
| 松永久秀が和泉堺から大和へ入る。
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| 四月七日
| 筒井順慶が奈良の陣を引いて自城へ戻る。
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| 四月十一日
| 松永久秀が多聞山城へ入る。
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| 四月十八日
| 三好三人衆が一万余りの軍勢を率いて奈良近辺に陣取り、付近の通行が出来なくなる。(いわゆる「南都対陣」開始)
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| 四月二十四日
| 天満山・大乗院山に三人衆と順慶勢が陣を移し、対する久秀勢は寺内(東大寺か)の塔や南大門に登り鉄砲を放つ。このため昼夜分かたず「雷電の如き」銃撃戦となる。
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| 五月二日
| 石成(友通)・摂津池田衆以下約一万の兵が東大寺へ陣替え、念仏堂・二月堂・大仏殿の回廊などへ布陣する。久秀勢は戒壇院に楯て籠もる。
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| 五月五日
| 「池田衆并三好山城守(康長)番替」として四・五千の兵が来着する。
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| 五月十七日
| 摂津の池田勝正が自ら西方寺に着陣。下野守(三好政康)は天満山から七・八千の兵とともに「西ノ坂」へ陣替えし、念仏堂にいた石成配下の衆は氷室山法雲院裏手の畠に布陣する。筒井順慶は大乗院山を動かず、東大寺内への通路を絶つ。
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| 五月十八日
| 東山から多聞山へ攻め寄せ、敵に陣取らせないように多聞山より焼き払う。般若寺・文殊堂など多数の伽藍が焼け、飛び火して戒壇院の授戒堂はじめ南北水門まで悉く焼ける。
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| 五月十九日
| 花厳院で釣閑斎(三好政康)・石成(友通)・川合が参会、談合する。
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| 五月二十三日
| 早暁、池田衆が「マメ山」へ移動する。
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| 五月二十四日
| 夜前に多聞より無量寿院を焼く。三好三人衆が法輪院へ入ったため松永勢は多聞山から火矢を放ち、寶徳院・妙音院・徳蔵院・金蔵院以下悉く焼ける。
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| 五月二十八日
| 申の刻に秋山衆が無量寿院屋敷門の築地に櫓を上げて押し寄せ、死者二名・手負い少々を出す。
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| 六月四日
| 夜、筒井衆が興福寺内へ火矢を放つが、火災は起こらず。
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| 六月五日
| 筒井順慶が龍花院方の発心院・中蔵院・千手院・大聖院・安養院・谷坊・慈明坊へ陣を移す。
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| 六月十七日
| 信貴山衆(松永方)が箸尾衆(同為綱方)とともに筒井郷椎木・小泉周辺に放火する。
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| 六月二十一日
| この日の朝、「平群嶋城」に「庄屋」が乱入し、一族九人を殺害する。
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| 六月二十八日
| 西方寺が焼ける。
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| 七月八日
| 古市氏が松永方に寝返る。
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| 七月十一日
| 古市郷が焼き払われる。
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