岐阜城陥落

米野の戦いで西軍方を撃破した東軍は、織田秀信の籠もる岐阜城へと攻め寄せます。西軍は河渡川の戦いでも別働隊に敗れ、さらに頼みの岐阜城もわずか1日で落とされ窮地に立たされます。


要衝・木曾三川

 この関ヶ原の一連の戦いでは、木曽川・長良川・揖斐川という大河が、攻め寄せる東軍の前に横たわっている。三成のいる大垣から東方向を見ると、揖斐川・長良川・木曽川の順で平行に流れているが、揖斐川はそのままほぼ北へと流れ、長良川はこの稿で触れる河渡(現岐阜市河渡)付近から大きく流れを東寄りに変え、北東方向へと続く。また木曽川は現在の笠松町木曽川橋付近から東へと流れを変え、犬山城まではほぼ東西の流れとなっている。これだけの自然の要害を備えていながら、易々と東軍勢に渡河を許してしまったことが西軍の敗因の一つといっても良いが、これは西軍の兵が弱かったからではない。現に米野の戦いでは敗れはしたものの、もし東軍に対抗できうる数の兵が集まっていれば、こうも簡単に東軍は渡河出来なかったであろう。
 つまり、ここで言う「敗因の一つ」とは東軍の進出に対して十分な兵力を集められなかったこと、すなわち三成の対応が後手後手に回ってしまったことを言う。これが「主将不在の寄せ集め軍団」の辛いところである。もし西軍が木曾川の線で東軍を食い止め、十分な軍勢を次々と集結させていたならば、後の歴史は多少なりとも変わっていたはずである。
 三成は東軍が竹鼻城に押し寄せるとの報を受け、垂井にいた島津惟新(義弘)を大垣から東へ一里の長良川右岸墨俣へ向かわせて東軍勢に備え、自らは小西行長らと揖斐川右岸の沢渡(現大垣市東町)へ出陣した。しかし二十二日に米野での敗報がもたらされ、東軍が東山道から大垣へ殺到する恐れが出てきたため、三成は舞兵庫を大将に、杉江勘兵衛・森九兵衛に一千の兵を預けて長良川右岸の河渡へと向かわせた。

 舞兵庫なる人物は、『武功夜話』によると前野兵庫介忠康といい、妻は秀次失脚時に連座責任を問われ自刃した前野但馬守長康の娘である。かつては豊臣秀次に仕え黄母衣衆十三人の一人として知られる剛の者で、秀次の失脚後に同僚の大場土佐らとともに三成に招かれ、五千石にて召し抱えられたとされる人物だが、当稿では通称の舞兵庫にて書かせていただくことにする。
 この日のうちに河渡へ着陣した舞らの西軍勢は、前線の河渡堤に森と杉江、そこから後方八町(約870m)の地点に舞という形で布陣し、迎撃体勢を敷いた。


岐阜城陥落

 さて、岐阜城に追いつめられた秀信は二十二日夜、大垣城と犬山城に救援要請を飛ばし、軍評定を開いて諸将の持ち場を定め、援軍到着までそれぞれ死守するよう命じた。木造具康は残兵を全て周辺の砦から引き上げて岐阜本城へ集めた上での抗戦を主張したが、秀信は聞かず各所に兵を配置した。すなわち本城は秀信と異母弟秀則が守り、稲葉山・権現山砦は松田重大夫、瑞龍寺山砦は河瀬左馬之助ら。総門口には津田藤三郎、七曲口には木造具康父子。御殿・百曲口は百々綱家ら、水の手口には武藤助十郎らという面々である。

 一方東軍では、福島正則と池田輝政の間にちょっとした悶着があった。正則は輝政に使者を送り約定違反を強硬に抗議するが、本多忠勝や井伊直政が中に入り正則をなだめるという一幕があったという。それはともかく、二十三日朝、東軍は犬山城への押さえとして新加納村・長塚・古市場に山内・有馬・戸川・堀尾らを、大垣から来援した西軍勢については田中・藤堂・黒田の諸将を長良川右岸の河渡に向かわせ、岐阜城総攻撃を開始した。

 瑞龍寺山砦へは浅野幸長らが、続いて稲葉山・権現山砦へは井伊直政が、大手口へは福島正則らが殺到した。もはや秀信勢は何の抵抗もできなかったと言って良く、あっという間に諸砦を落とされて本城を包囲されてしまう。犬山城からの援軍もついに来なかった。
 万策尽きた秀信は城中より笠を掲げて降伏の意を伝え、東軍はこれを容れて攻撃を停止した。秀信は自刃しようとするが、池田・福島らの説得もあって思いとどまり、下山して上加納の浄泉坊(現円徳寺)に入った。秀信はここで武具を解き剃髪して尾張知多へと送られ、関ヶ原合戦終結後には高野山へと向かうことになる。
 こうして岐阜城は、わずか一日であっけなく落ちた。


河渡川の戦い

 二十三日朝、東軍の黒田長政・田中吉政・藤堂高虎は、大垣から岐阜城への援軍が来ると読み、これを阻止すべく岐阜城の西・長良川左岸へと軍を進めた。しかし西軍が既に布陣していたので、直ちに機先を制し銃撃を浴びせ、激しい銃撃戦となった。いわゆる「河渡(ごうど)川の戦い」である。
 この日は濃い霧が立ちこめていたため前線の西軍勢は東軍勢の来襲に気付かず、加えて朝食を摂っていたため狼狽し、かろうじて舞に報告をしたものの、準備が整わずただ銃撃戦を繰り返すのみであったという。

 東軍勢は、まず初めに田中勢が川上の茱萸(グミ)の木原から渡河に成功、森・杉江らの軍勢に突入した。続いて黒田勢も渡河、別働隊の後藤基次(又兵衛)や黒田一成(三左衛門)らと河渡の西へ迂回し、舞勢に攻めかかる。西軍は前線の森・杉江らと舞兵庫の本隊が同時に攻め立てられる形となって苦戦に陥り、先陣は杉江勘兵衛が殿軍となって退却するが、奮闘及ばず勘兵衛は田中勢の西村五左衛門に討ち取られてしまった。この杉江勘兵衛はもと稲葉一鉄良通の家臣で、姉川の戦いの際の活躍により武名を挙げた剛の者である。故あって一鉄に恨みを持ち、稲葉家を去り浪人していたところを近頃三成に拾われ、重用されていたと伝えられる。この日も九尺の朱柄の鑓を振り回して奮戦していたという。
 濃霧の立ちこめた朝ということもあり、舞兵庫らは少し油断をしていたかもしれない。兵庫は懸命に防戦に務めるが、数にも勝り勢いに乗る田中・黒田勢を一手に引き受けてはどうしようもない。混戦とはなったが結局は支えきれず、三百余人を討たれて大垣へと敗走した。

 三成はこの日の朝八時頃、沢渡に小西・島津らを呼び軍議を開いていたが、そこへ河渡の敗報が届き、あわてて大垣へ退却しようとした。しかし、島津惟新は自らの軍勢を墨俣(現安八郡墨俣町墨俣)に展開させているため、この撤退が先と主張し難色を示した。しかし三成は、島津家の士新納弥太右衛門と川上久右衛門が「惟新を死地に置き去りにして一人退却するのは卑怯」と三成の馬を押さえて訴えたのにもかかわらず、ただちに大垣へと退却していったという。惟新はとりあえず甥の豊久に連絡を取り、無事に軍を撤収はさせたが、もはやこの時点で三成を見限る下地は出来ていたものと見て良いと思われる。

 そして九月十五日の本戦において、島津勢は自軍への攻撃に対しては反撃するものの三成の指示には従わず、遂に積極的には動かなかった。


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