風雲急を告げる

慶長三年には秀吉、翌四年には前田利家と、相次いで巨星が墜ちます。徳川家康は石田三成を佐和山城へ退去させると会津の上杉攻めへと出陣、ここに「関ヶ原」の幕が切って落とされます。
なお、これ以降は先行公開した「人間模様・関ヶ原」と内容が一部重複することを予めお断りさせていただきます。


家康、会津征伐へ

 慶長三(1598)年八月、豊臣秀吉が病没した。当時徳川家康は一応豊臣政権下の大大名として収まってはいたが、これは時勢の流れには逆らわず隠忍自重していたのであって、もとより秀吉に心服していたわけではない。表面には出さなくとも、隙あらばと天下人の座を虎視眈々と狙っていたであろうことは想像に難くない。そして、秀吉の死を境に家康が動き出した。
 まず家康は石田三成ら吏僚派(文治派)と対立していた武勲(武断)派などと呼ばれる福島正則らの諸将に接近し、秀吉が禁止していた「無断で縁組みを結ぶこと」を破り、伊達・福島・蜂須賀氏と縁組みを結ぶ挙に出る。これは豊臣家に対する明らかな違背行為で、三成らはこれを咎め「内府違ひの条々」なる弾劾文を発すが、家康はのらりくらりと言い逃れし、挙げ句の果てには開き直る始末であった。

 福島正則・加藤清正ら七将は朝鮮役以来三成ら吏僚に強い不満を持ち、機会あらば討ち果たそうと思いはするものの、前田利家の在世中は手出しはできなかった。というのも、利家は当時旧織田家系大名の中心的存在で、また秀吉の小者時代からの知己でもあり、福島・加藤ら秀吉子飼いの武将達からも信望を集めていた人物であったからである。利家は家康とともに豊臣家の政治中枢にあったが、その本心は別として家康ほどの野心は抱かず、とりあえずは世が平穏に治まるよう努力していたように見受けられる。しかし慶長四(1599)年閏三月三日、その利家が病没した。
 これを機に三成らに恨みを持つ上記七将は三成襲撃の挙に出たが、窮地に立たされた三成になんと家康が助け舟を出し、一命の安全を保障する代わりに政権中枢から彼を外し佐和山へ蟄居させたのである。七将は怒りは収まらないものの、相手が家康ではどうすることも出来ず、とりあえずこの件は三成の蟄居ということで収まった。

 さて同年八月十日、上杉景勝は領国の会津に戻ると城砦を修築して軍備を整え出した。これはもちろん家康に対するものではなく、秀吉・利家という実力者が没して再び戦国の世に戻らないとも限らない時節に備えたものであった。あわよくば中央の混乱に乗じて旧領越後を回復しようと企てたのかもしれない。

 翌慶長五(1600)年正月、家康は年賀を述べに来た上杉家の家臣藤田信吉を通じて景勝に対して上洛を求める。信吉は戻ってこれを景勝に伝えたところ、景勝は烈火の如く怒り、信吉が家康方に内通したと疑い誅殺しようとした。身の危険を感じた信吉は上杉家を逐電、江戸の秀忠のもとを経て大坂の家康に「景勝謀反の疑いあり」と報じる。家康は他の大老奉行と相談の上で景勝に再度の上洛と陳謝釈明を求めるが景勝はこれを拒否、ここに家康の会津征伐へとなるのである。
 征伐の理由としては、一口で言うと豊臣政権における規律違反とのことだが、これはおかしい。そもそも秀吉の遺命に背いて許可無しに婚姻関係を結び、私的に恩賞を与えるといった「規律違反」を初めに、しかも堂々とやってのけたのは家康なのである。自分のことを棚に上げて一方的に「謀反」と決めつけられた景勝としては、はいそうですかと従えるはずがない。むろん家康はこういうことを見越した上で一連の行動を起こしたわけで、そういう意味では景勝はまんまと家康の術中にはめられたのかもしれない。

 六月十六日、家康は豊臣家の諸将を率いて大坂を発ち、伏見城には腹心の鳥居元忠を入れて会津へと向かった。その際三成は自分の名代として子の隼人正重家を大谷吉継に預けて家康の会津征伐に従軍させることとし、これを口実に軍備を整えていったのだが、ここで左近が家康襲撃を三成に願い出たという。


左近、家康襲撃を策す

 この時期、左近が三成に家康襲撃を献策したことが伝えられているのでご紹介する。まず一つは三成が佐和山へ退去する際のこと。『常山紀談』によると、この時左近は空しく佐和山へ退くべきではないと三成の退去に反対し、この絶好の機を逸さず家康を襲撃するべきであると勧めたという。左近はいずれは戦うことになる家康に対し、宇喜多秀家や小早川秀秋らを自軍の中核とするには心許ない旨を伝え、佐和山の兵を動員して蒲生備中・舞兵庫・高野越中らとともに、直ちに向島の家康居館へ攻撃をかけるよう求めた。戦略としては風上から火を放って諸所を燃え上がらせ、家康が防ぎかねて引き退くところを追い詰めつつ戦うというものである。左近には十分勝算ありとしての献策であったが、三成はこれを用いなかったという。
 もう一つは家康が会津征伐に伏見を出陣した際のこと。『東照宮御實記(徳川実記)』によると、家康は大津城で昼食をとり、その日は石部に泊まったのだが、そこへ水口城主長束正家が訪れ、翌日水口へ立ち寄ってもらうよう懇願した。佐和山城にいた左近はこれを探知し、三成に水口への夜襲を提案したという。三成は長束正家と家康襲撃の打ち合わせを済ませているからと採用しなかったが、左近は強いて勧めて許可を取り付け、三千人の兵を率いて蘆浦観音のあたりから大船二十艘に分乗して水口へと出陣した。急ぎ子の刻に水口まで来た左近であったが、もはや家康はすでに出立した後であった。左近は呆れて空しく佐和山へ引き返したという。

 この際、石部にいた家康のもとに代官の篠山理兵衛景春が伺候し、長束に不審の兆しありとの情報を知らせたため、家康は災難を未然に回避して会津へと向かったという。むろんこれらの話は直ちに史実と断定するわけにはいかないが、左近ならやりそうなことである。いや、江戸期以降にこういった話や関ヶ原の際の逸話などが巷間に伝えられることにより、確実な記録が少なくその事績は謎と言っても良い島左近の武将像が次第に出来上がっていったのであろう。


三成挙兵す

 一方、当時敦賀五万石の主であった大谷吉継は六月二十一日(日時には異説あり)、家康の会津征伐に従軍すべく一千の兵を率いて美濃垂井まで軍を進め、佐和山の三成のもとに使者を発して隼人正重家を従軍させるよう伝えた。三成は吉継の垂井着陣を聞くと樫原彦右衛門を彼のもとに遣わして来訪を求め、佐和山へやってきた吉継に初めて挙兵のことを打ち明けた。
 吉継には事の無謀さが良く解っており、猛反対して挙兵を思いとどまるよう三成を説得する。しかし、三成の意志は固かった。その場は「決裂」した形となったものの、吉継は垂井の陣所に戻ってからも悩み続けた。そしてついに三成との友情に殉ずる決意をしてこれを彼に伝え、軍勢を集めるため再び敦賀に戻っていったのである。
 この際、吉継は気分一新を図り「吉隆」と改名した。これはかつて信長に攻められ河内若江城で自刃した三好義継に音が通じることを忌み嫌ったためという (『烈祖成績』) のだが、本稿ではこのまま「吉継」の名で書き進めさせていただくことにする。

 さて大谷吉継を味方に付けた石田三成は、ついに開戦に向けて動き出した。七月一日に大坂へ出て協議(日時は異説あり)、家康の罪状十三ヶ条を挙げた檄文を発して宣戦布告したのである。西軍方は手始めに東軍方の女房衆を人質として確保しようとするが、七月十七日にはこれを拒否した細川忠興の妻ガラシャが、大坂玉造の細川邸にて小戦闘の後に命を絶つという事件が起こり、なかなか思惑通りには事は運ばなかったようである。しかし十九日には一斉に伏見城を包囲して攻撃を開始、別に小野木重勝には細川幽斎の籠もる丹後田辺城攻撃へ向かわせ、ここに遂に戦端が開かれた。
 鳥居勢の頑強な抵抗に手こずったものの、内応者の手引きにより伏見城は八月一日に落城する。しかし田辺城は関ヶ原合戦終結後の九月十八日まで落ちなかった。これは三成の誤算の一つであったろう。

 一方、七月二十四日に下野小山に到着した家康のもとに西軍挙兵の一報がもたらされると、家康は翌日に急遽軍評定を開いて諸将にこれを告げた。席上軍を返すことが決すと、二十六日には福島正則・池田輝政が東軍の先鋒として小山から陣を引き払い、諸将もこれに続いて西上の途についた。
 一旦佐和山へ戻った三成は、福島正則の居城清洲城へ木村宗左衛門(勝正)を派遣して開城を求めるが、留守居の大崎玄蕃はこれを拒否した。三成は前線へ向けての出陣を八月九日と定めたのだが、『関ヶ原軍記大成』などによると、その際に左近は、朔日・九日・十七日・二十五日は悪日であり出陣は避けるべきだとし、曲げても九日の出陣は延期するようにと求めた。左近は先陣を切って嫡子新吉とともに二千三百余人を率いて八月五日に佐和山城を出陣、その日は垂井に宿したが、三成は左近の助言を用いず予定通り九日に出陣したという。

 石田勢は大垣城へ入った。これが八月十日のことである。この時点で西軍に加担する加賀大聖寺城の山口宗永・修弘父子は金沢から出陣した前田利長に攻め落とされ八月三日に自刃、また八日には金沢に戻る途中の利長と小松城主丹羽長重が、浅井畷で激戦を繰り広げて痛み分けとなっている。そして伏見城を落とした西軍の毛利秀元・吉川広家は八月五日の時点で伊勢・安濃津城攻めに向けて関まで進軍していた。


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