従来の左近関連の書籍ではほとんど採り上げられていませんでしたが、左近は文禄四年八月に大和で行われた検地の際、岡崎村の検地奉行を務めています。その記録を見ると、左近が当時依然平群郡に所領を持っていたような感を受けます。 |
検地奉行を務める 少し時代は飛ぶが、関白豊臣秀次失脚後の文禄四年八月、増田長盛の大和郡山入封と同時に大和において検地が行われているが、その「文禄検地帳」の平群郡岡崎村(現奈良県安堵町)の検地奉行の項に「嶋左近」の名が見られ、同郡竜田村(同斑鳩町)の項には「石田治部少輔」の名が見える。他郡の検地奉行には増田右衛門尉(長盛)をはじめ石田杢頭(正澄=三成の兄)・長束大蔵(正家)らの名が見えるのだが(『安堵町史』)、記録から見て左近はこれらの人物と同列に扱われているようなのである。 当時石田三成のもとにいて佐和山に居住していた左近がなぜ大和平群郡の検地帳に名が見えるのかであるが、これは当然左近と平群郡との関わりを考慮したものであろう。もう一歩踏み込んで考えると、他の村々は「合」を石高の最低単位として記録されているのに対し、左近が竿入れした岡崎村のみ「勺」の単位までおろしていることから、この時点でも左近の所領は従来通り平群郡にあったと考えたい。左近は平群郡で一万石を領していたとされるが、平群谷のすべての村の石高を合算しても六千石に満たないため、旧吐田氏領(現御所市)などを含め、平群谷以外の所領が他にあったはずである。おそらく岡崎村もその一部とみられ、左近は秀吉の命により平群へ赴き三成らの仕事を助けたものと思われる。 豊臣秀次の近江八幡山城主時代を例に取ると、田中吉政・堀尾吉晴・山内一豊・中村一氏・一柳直末らが家老として秀吉から付けられている。秀次が八幡山城主となったのは天正十三年閏八月のことで、石高は本人分二十万石、「相付候宿老共」二十三万石の計四十三万石であった(『武家事記』所収秀吉文書)。 田中吉政を除く他の家老らは佐和山城(堀尾・四万石)・長浜城(山内・二万石)・水口城(中村・六万石)・大垣城(一柳・二万五千石)などとそれぞれの城を与えられているが、三万石の田中吉政には固有の居城がなく、八幡山城麓の重臣屋敷に居住して秀次を補佐していたのである。 左近の場合もこれとよく似ていると言えないだろうか。文禄元年の時点で三成は美濃に所領を持ち、佐和山城は持ち城ではなく職務を遂行するための、いわば「借り物」の場所であった。しかし、そこに左近夫妻が住んでいたのは事実である。しかも左近の屋敷(現清涼寺)は松原内湖に架けられた百間橋〜大海道の真正面に位置しており、佐和山城下の要と言って良い場所である。田中吉政同様に当時左近に居城はなかったが、秀吉から旧領平群郡を改めて与えられた上で三成の補佐として付けられ、佐和山城下に居住していたのではないかと考えたい。 つまり、現時点では推測の域を出ないが、筒井順慶の没後に左近は旧領平群郡を考慮した一万五千石ないし二万石で秀吉の直臣扱いとなった。そして筒井家に目付として派遣されるが、やがて内訌により筒井家を去り、その後は秀吉の直臣として小田原役に参陣した。そして三成が近江・美濃の代官就任時に秀吉に懇願したかどうかまではわからないが、左近はこの時秀吉より三成に付けられて佐和山城に赴いたと考えたい。こう見てくると、やはり三成と左近の「水口城四万石云々」の話は、後世に作られた話と考えざるを得ない。 不詳の人物・嶋大和守 さらに後の慶長三年八月、秀吉の逝去に伴い主立った武将らに「形見分け」が行われたが、その中に気になる記述がある。『太閤記(甫庵)』巻第二十二「秀吉公御遺物於加賀大納言利家卿館被下覚如帳面写之」と題された記録に 「一 景光 嶋大和守」 とあるのだが、これは左近のことではないだろうか。当時の面々を見渡しても、嶋姓で大和守を名乗れる武将は左近ぐらいしか思い当たらない。もしそうだとすると、先に述べた『大和志料』における 「和州高付帳同記所引曰平群郡 大将島大和守清澄 同左近清勝 文禄改高 一四百七石八斗六升七合 椿井村 島大和守 一七十七石八斗三升五合 椿村 島左近」 の記録に見られる「椿井村 島大和守」の謎が解けるわけであるが、その場合は文禄四年の時点においても左近または一族が平群郡に知行地を持っていたことになる。左近やその子の名乗りは諸書様々に書かれていることから、あるいはこれら清澄・清勝は左近父子を指しているのかもしれないが、そこまではわからない。 ただ、当時肥前五島一万五千石の領主に秀吉から豊臣姓を賜っている五島大和守玄雅という人物がいるのだが、同記にその名が見られないため「五島大和守」の誤記(脱字)である可能性もないとは言えない。したがって嶋大和守が左近であるとは断定できないが、刀を拝領した面々の中には左近とともに伊賀へ赴いた岸田伯耆守(拝領刀・則重)や松倉豊後守(同・国吉)の名も見える。もし嶋大和守なる人物が左近ならば、岸田伯耆や松倉豊後とともに、やはり秀吉の直臣扱いを受けていたことは間違いないと見て良いのではなかろうか。 左近は最終的には三成の家臣と捉えても良いが、その時期は秀吉没後のことであろう。『和州国民郷士記』に「嶋修理介知行一万石秀頼卿ヨリ 同持宝院陵尊房一万石石田三成ヨリ」と見えるのは、まさに左近が秀吉没後に三成の家臣となった際のものではなかったかと思えるのである。修理介が左近の二男とすれば(同記録では長男は掃部介で関ヶ原にて討死とある)、関ヶ原合戦時には秀頼の守備を務めて美濃へは参陣していなくても不自然ではなく、『関ヶ原町史』にある二男彦太郎忠正の生存伝説と重なる可能性も出てくるのである。 |