筒井家を去った左近は石田三成に仕えますが、この間の左近の動きはよくわかっていません。ここでは左近が石田家へ身を寄せる際の経緯や動きを、残された資料から今一度考えてみました。 |
左近の立場 左近が豊臣家の直臣として扱われたものと捉えたいということは先述したが、もう一度時代を遡って順慶死去の時点に話を戻す。左近は筒井順慶の葬式に幡持ちとして参加しており、記録には「嶋左近殿」と敬称が付けられている。これを左近が家臣とは言え特別な地位にあったと解するものもあるが、この記録(『樫尾文書』)の他の人名を見ると、どうやらそうではないように思える。 「殿」の付けられた人物としては他に「井戸殿」「古市殿」「龍田殿」「岸田殿」「布施新介殿」「十市殿」などか見られ、敬称のないものには「森猪之助」「松蔵右近」などが見られる。つまり、単に筒井家の一族衆には敬称がなく、麾下ではあるが一個の国人衆として見なされている者は敬称が付けられているものと見て良いのではないか。記録中の「岸田殿」と秀吉の命により伊賀へ赴いた岸田伯耆が同一人物かどうかはこれだけでは判らないが、もしそうならば同時に伊賀名張へ移った格上の松蔵右近(岸田氏は三千石、松蔵氏は八千石)には敬称がないことになり、釈然としない。森・松蔵両氏は左近の島氏とともに筒井の三老と称されており、少なくとも筒井家においては、家格はほぼ同格のはずである。『大和志料』によると松蔵氏は筒井氏の一族とされており、左近に「殿」があって松蔵右近にそれがないのは、この理由によるものと思われる。 さて、秀吉は要衝大和の地でこれ以上筒井家と結びつきの深い寺社勢力が増大するのを好まず、最も信頼できる弟・秀長を大和に置いて筒井氏を伊賀に移し、興福寺等の寺社勢力と切り離した。いわば「兵僧分離」である。その際筒井氏麾下の国人衆は直臣として処遇し、秀吉の命により再編成を行った。左近が伊賀に赴いたのも、平群谷の所領はそのままと見られることや大和平群谷が秀長の管轄下にあったことから、当初は秀吉の臣として秀長に属した上で定次の監視のために派遣されたと考えたい。 言い換えれば、左近は定次を主君としては仕えていないわけで、だからこそ「筒井家を去って秀長・秀保に仕えた」とする説が存在するのではないかと思われ、表現は微妙だが一面においてこれは正しいのである。 これは松蔵氏についても同じと見られ、『寛政重修諸家譜』の重信の項には 「順慶につかへ、食邑二千五百石を知行し、大和國結崎に住し、のち同國畑高取等にうつり、加揩りて八千三百石を領し、伊賀國名張の城を守る。このとき豊臣太閤より朱印をたまひ、筒井伊賀守定次に属す。文禄二年七月七日死す。年五十六。法名安齋」 とあり、順慶には「つかへ」とあるのに対して定次には「属す」と記されている。また『伊水温故』の「簗瀬ノ城」の項には 「慶長ノ始羽柴伊賀守藤原定次ノ与力松倉豊後守重政八千石ヲ領シ當城ヲ筑テ居住ス 定次没落以後ハ松倉和州五条ヲ守護シ家康公ノ昵近トナル」 とあり、こちらは明確に「与力」と記されている。ただ寛政諸の重政の項には「筒井伊賀守定次につかへ」とあることから、家臣か与力かの位置付けは微妙だが、これらの資料からも順慶没後の左近や松倉右近の主君は、どうやら豊臣家と解釈した方が良さそうである。 ということは、左近は自らの意志で伊賀を去ってさえいなければ、浪人する必要はないはず。南都持寶院は秀長の管轄下であることから、仮に定次の目付役を果たせなかったという自責の念から自発的に伊賀を去り、一時的に「謹慎」したことはあり得ても、近江高宮の傍らに庵を結んで隠居したとする説は、やはり少々受け入れにくい感がある。 左近夫妻と「亀山」 筒井家を去った左近は、やがて石田三成のもとに身を寄せることは周知の事実である。しかし、その時期は未だにはっきりしておらず、この一連の稿の最も核心部分の一つである。さてこの時期についてだが、『多聞院日記』に以下の記述がある。 【記述A】 「一 北庵法印明日龜山ヘ爲見廻越トテ、箱二ツ預ラレ了、嶋左近ノ内方法印ノ娘一段孝行、左近陣立ルスノ間越了」(天正十八年五月十七日条) 【記述B】 「十日、一門ヘ因大終了、北庵法印之息女嶋ノ左近之内方、今江州サホ山ノ城ニアリ、母之卅三年此六月十八日引上テ追善、(後略)」(同二十年四月十日条) 【記述C】 「一 北法印去十日ニ歸國、昨日被尋、ミノ帋二帖被持了、用アル由申間宿ヘ尋之處、嶋左近清興高麗陣立無異儀歸國ノ様、當社ヘ立願状事被申間同心了、(後略)」(同二十年十月十四日条) 「(前略) 嶋左近清興高麗出陣付、早速歸國ノ立願状事北庵法印被申間直参了、奉帋伊右衛門祢宜申付之」(同二十年十月十八日条) 【記述D】 「一 嶋左近昨日八日佐和山ヘ西陣ヨリ歸了、祝著之由北法印ヨリ申來了」(文禄二年閏九月九日条) 記述Aには左近の妻の父で興福寺に属す医師・北庵法印が「亀山」へ見舞いのために赴くとあり、従来の説ではこの記述から当時左近は妻とともに「亀山」に住んでいたとされているようである。この「亀山」は伊勢亀山と解釈する向きが主流と見られるが、丹波にも亀山(現亀岡)があるため、特定されるには至っていない。 記述Bは北庵母 (妙誉禅尼) の三十三回忌に関する記述で、この時点で左近の妻は近江佐和山の「城」にいたことがわかる。 記述Cは北庵法印が左近の陣中の無事を祈って立願状を多聞院英俊を通じて春日社に持参したというものである。 記述Dは左近が無事に「西陣(文禄役)」から帰還した喜びを北庵法印が多聞院英俊に伝えに来たもので、左近が佐和山に戻ったことが記されている。 さて、記述Aの文章をもう一度よく見ていただきたい。前半の「北庵法印明日龜山ヘ爲見廻越トテ、箱二ツ預ラレ了」の解釈としては「北庵法印は明日亀山へ見舞いに出かける予定なので、(多聞院英俊に)箱を二つ預けた」と見て問題ない。しかし、問題は後半の部分である。 「嶋左近ノ内方法印ノ娘一段孝行、左近陣立ルスノ間越了」の意味としては、「嶋左近の妻である北庵法印の娘はひとしお親孝行だ。左近が(秀吉の小田原北条氏攻めに)出陣して留守なので(見舞いに行く父の世話をするため)わざわざやって来た」と解釈したい。つまり後半の文章の主語は北庵法印ではなく「嶋左近ノ内方法印ノ娘」と考える。 この解釈は重要なポイントなのだが、特に後半の「一段孝行」とあるのは、夫左近が出陣して留守なので、亀山へ行く父の身の回りの世話をするためわざわざ娘が(南都へ)やって来たという行為が、多聞院英俊にとって「一段孝行」と感じられたものと解釈したい。となると、この記述は左近が亀山に住んでいたという論拠にはなり得ない。 では当時左近夫妻はどこにいたのか。今一度白紙に戻して考えてみる必要がある。 石田三成の所在 気分的には左近夫妻は天正十八年の時点で佐和山に住んでいたとしたいところであるが、当時佐和山城には秀吉の甥・秀次(八幡山城主)の家老格として堀尾吉晴が在城していた。つまりこの記録の時点(五月十八日)では左近はまだ佐和山城下には住んでいなかったものと見られ、加えて当時の三成の所領がよくわかっていないことも、左近の所在の謎に拍車をかけていると思われる。最近の研究により三成が初めて佐和山城に入ったのは天正十九年四月であることが判明しているが、これは領主としてではなく近江・美濃の蔵入地代官としてのものであり、この時点で三成の所領は近江にはなく美濃にあったことが伊藤真昭氏の研究により明らかにされている。一般な三成のイメージである「江北四郡の主」としての入部は、秀次処断後の文禄四年七月以降のことであり、この点については後の稿で述べることにする。 この年、秀吉は徳川家康を筆頭に全国の大名を従えて小田原北条氏攻めを行っているのだが、一つ注目される記録がある。 石田三成はこの戦いに千五百の兵を率いて従軍しているが、丹波福知山城主小野木重勝の八百の兵とともに一隊を編成し、二月二十八日に京都から出陣している。つまり当時の三成の所領または預かり地は京都からさほど離れていない場所にあったのではないだろうか。同日京都から出陣した若狭小浜城主(八万石)の浅野長吉(のち長政)が三千の兵を率いていることを考えると、一概には比較できないが三成の所領は約四万石程かと推定される。もしこの頃左近が三成のもとにいたとなると、水口城主云々は別として、逸話に残る四万石という数字とは一応符合する。ちなみに当時大谷吉継は五百七十、増田長盛は五百の兵を率いて従軍している。 丹波福知山城主・小野木重勝の妻は左近の娘である。彼女は秀吉の侍女上がりのキリシタンといわれ、教名シメオンを持っていたとされる。確実な資料ではないが、左近は一説に天文九年の生まれとされており(『和州諸将軍伝』等)、これを信じれば筒井家の伊賀移封時は四十四歳ということになる。この年齢から考えると、彼女はちょうどその頃秀吉に侍女として奉公し、程なく重勝の妻になったと考えても何らおかしくはない年頃であろう。重勝は秀吉が関白となった天正十三年七月に三成や大谷吉継らとともに従五位下縫殿介に叙任され、「天正十五年からそう遠くない以前」に福知山城主となっているため(『福知山市史』)、叙任または城主となる少し前に妻帯したと考えるのが自然ではないだろうか。 むろん左近と重勝の繋がりと言うよりは、秀吉の存在が垣間見える。そう考えると左近と秀吉との関係は、やはり筒井順慶が没したあたりから出てきたと見て差し支えないものと思われる。 ちなみに三成の叙任は天正十三年七月十三日のことで、これは筒井定次の伊賀移封の二ヶ月前に当たることから、この頃までに左近は豊臣家の直臣扱いを受ける身になっていたものと考えたい。その際に秀吉の求めにより娘を侍女に差し出したと考えられなくもないが、ここまで言えば創作になる。 さて前出『多聞院日記』の記述Aの後半部分「嶋左近ノ内方法印ノ娘一段孝行、左近陣立ルスノ間越了」を今一度考えるに、英俊が「一段孝行」と表現するくらいであるから、北庵の娘は結構な道のりを「わざわざやって来た」のであろう。つまり左近夫妻は南都からある程度離れた場所に住んでいたと思われる。記録Bの天正二十(文禄元)年四月十日の時点では「今江州サホ山ノ城ニアリ」の通り、左近夫妻は佐和山城に居住していたと見て良い。しかし「今」という文字が付けられており、まだ佐和山に住んで間がないように思える。とすれば、天正十八年の時点ではまだ佐和山には居住していなかった可能性が高い。 現時点では推測の域を出ないが、これらを併せ考えると、左近夫妻は当時京都または大坂にいたのではないかと考えたい。そうなると、屋敷は秀吉から与えられていると見るのが自然である。加えて京都東山には現在左近の屋敷跡と伝えられる料亭「道楽」が、大坂には左近の屋敷があったとされる島町(大阪市中央区)があり、これらとの関連も今一度注目されよう。 |