左近の出自や事績を述べるにあたっては、まず中近世大和における特異な支配形態を理解しておく必要があります。ここでは連載を開始するに先立ち、大和地方独特の用語などをピックアップしてみました。 |
謎多き島左近 左近には改めて言うまでもなく、数々の謎がある。というより、謎だらけと言った方が適切かもしれない。例えば、出自はもとより、肝心の名乗りすら諸書に勝猛・清興・友之・清胤・昌仲などと様々に記されており、どれが正しいのかよくわからない。また奈良県生駒郡平群町の安養寺に残るとされる「位牌」についても、諸書に「島氏の位牌」「島左近の位牌」「島左近内儀の位牌」「島左近内侍の位牌」などと、実にまちまちに書かれてあり、これまたどれを信用して良いのかわからない有様である。 名乗りについてはこの際別としても、「位牌」一つになぜこんな事が起こるのか。それはきちんと実地調査せず、安易に先行書の記述に頼りすぎるからではないだろうか。確かに左近の記録は「良書」にはほとんど見られない。かといって踏み込んだ調査をいつまでもしなければ、結局は今までの論述物の「焼き直し」に終わってしまうのである。 ちなみに安養寺に残る位牌には「天文十八年九月十五日 嶋佐近頭内儀」とあり、時期的に考えて先代左近の妻、すなわち左近の母のものではないかとみられる。 ほんの一例をご紹介する。とある文献中に、左近の妻「御ちゃちゃ」の母の三十三回忌に関する記述があり、「おちゃちゃの母が永禄年間初頭に歿したことがわかる」と述べられてある。これは『多聞院日記』の天正二十年四月十日条を引いているのだが、参考のために該当部分を引用する。 「十日、一門ヘ因大終了、北庵法印之息女嶋ノ左近之内方、今江州サホ山ノ城ニアリ、母之卅三年此六月十八日引上テ追善、於傳香寺西大寺之長老請待、理趣三昧之諷誦之事被申、不及力如形書遣之了」 この条を読む限り、その通りであると言っても何らおかしくはない。意味としては「(本来は翌年に行われる予定の)母の三十三回忌を今年の六月十八日に繰り上げて追善供養をするつもりである」といったところであろう。参考までに、文中に見える「傳香寺」は筒井順慶の菩提寺で現在も奈良市小川町に存在し、順慶の画像なども蔵している名刹である。 しかし、同日記におけるその年の「六月十八日」前後の条を見ても、追善供養が行われた記述が見られないのである。これはおかしい。ということでさらに調べてみると、翌年の文禄二年五月七日条にあった。 「七日、於十輪院曼陀羅供北庵法印母卅三廻在之深宗出仕付於一条院衲袈裟借遣之、則返上了」 よく見ると「北庵法印母卅三廻在之」とあり、これは北庵法印の母、すなわち「御ちゃちゃ」の祖母の三十三回忌だったことがわかる。つまり、先の記述にある天正二十(文禄元)年四月の時点では、本来なら翌年に行われるべき北庵母の三十三回忌を一年繰り上げて同年六月十八日に行うつもりであったが、何らかの事情で行われず延期となり、結局は本来の時期である文禄二年五月七日に追善供養を行ったということである。むろん「御ちゃちゃ」の母と祖母が戦いなどの特殊な事情により同時に亡くなったと考えられないこともないが、常識的にはやはり「御ちゃちゃ」の母ではなく祖母と解するべきであろう。 このように、数少ない史料でも丹念に調査することにより、上記の如き記述も他に見出せることもあろうかと思われる。そこで「一級史料」と言われる『大乗院寺社雑事記』『多聞院日記』等を基本史料に据え、必要に応じて種々の資料文献を引くという姿勢を保った上で、まず左近の出自の謎から順を追って検証を進めていくことにする。 現在のところ、左近の出自に関する有力な説としては、主流と目される大和説の他に対馬説・近江説などがあるが、これらを順に検討を加えてみることにしたい。なお、先に公開した「大和の国人・島氏」の項でもご紹介した通り、他に尾張出自説などもあるにはあるが、根拠が乏しく説得力にも欠けると思われるため、今回はあらかじめ除外させていただいたのでご了解いただきたい。 中近世大和の特異な支配形態 この後、本稿において中近世大和およびその周辺の歴史を述べていくことになるが、それにあたってあらかじめ理解しておいていただきたいことが三点ある。 まず第一に、大和には他国と異なって守護大名が存在せず、興福寺がその代わりを務めていたということである。最盛期の興福寺は、大和に留まらず伊賀・山城・近江など各地に庄園領を有してその在地勢力を束ねていたが、やがて有力土豪らはその支配下から次々と独立していったため、興福寺の勢力は次第に衰退していく。そして大和国内でも筒井・越智・十市氏らの衆徒や国民が台頭、応仁の乱前後からは河内の畠山義就・政長による内紛の影響で、背景勢力の思惑も絡んだ小競り合いが長期に渡って繰り返されるが、最終的には織田信長から大和一国の統治を任された官符衆徒の棟梁・筒井順慶の手によって収束に向かうことになる。写真は興福寺遠景で、奈良県庁から撮影したものである。 第二には、この地方独特の「衆徒」「国民」という言葉である。簡単に言うと「衆徒」とは興福寺が大和国内における庄官・名主などの有力者を僧衆に準じて認めたもの、すなわち興福寺に属す僧体をした武士のことで、江戸期以降には「僧兵」と表現され、筒井氏・古市氏などがその代表格として知られる。また、鎌倉時代以降、衆徒の中から二十人を選んで四年間興福寺に在勤させた面々を、官符(官務)衆徒または衆中とも呼ぶ。一方、「国民」とは同国内における春日社領庄園内の庄官や有力名主を白衣神人(じにん)として任じたもので、いわば僧体である衆徒に対して俗体の武士のことを言い、こちらは越智氏・十市氏などが代表格である。島氏はこのうちの「国民」にあたる。 第三に、本稿を作成するに当たって主に引用している『大乗院寺社雑事記』と『多聞院日記』についてであるが、大まかに言うと、興福寺大乗院の記録である前者は反筒井氏(島氏含む)、また同じく大乗院方塔頭ながら後者は親筒井氏の立場で記録されているという点が重要で、内容は信憑性が高く「一級史料」とされる両日記を比較検討することによって、より史実性の高い考証が可能になる。そこで、本稿ではこれら二つの日記を主な典拠とし、他に『長禄寛正記』『経覚私要鈔』『蓮成院記録』等、出来る限り信頼がおけるとされる史料のみを使用、島左近関連の記述こそ多く見られるが、残念ながら俗書とされる『和州諸将軍伝』等は参考として掲げるにとどめることにする。 あと、「荘園」と「庄園」の表記についてであるが、意味的にはおおむね同じで、どちらで書かれている場合もある。ただ、最近の論文の傾向が「庄園」に傾きつつあることから、本稿では以下「庄園」に統一して表記させていただくことにする。また「神人」の読みは「じにん」・「じんにん」のどちらでも良いが、春日大社(奈良市)のお話によると、同社では「じにん」と呼んでおられるとのことだったので、本稿でもこれに合わせて「じにん」とさせていただいた。 |