島左近略年表

西暦和暦日付事績
1540 天文9 5月5日 【参考】この日、左近が生まれる。(『和州諸将軍伝』)
1549 天文18 9月15日 左近の母と思われる人物「嶋佐近頭内儀」が亡くなる。平群町の安養寺に同日付けで「安養寺殿安耀真栄大姉」の位牌が残る。
1560 永禄3 −−− 【参考】この年、長男新吉政勝が生まれる。(『和州諸将軍伝』)
1563 永禄6 −−− 【参考】この年、二男新助友勝が生まれる。(『和州諸将軍伝』)
1566 永禄9 5月26日 興福寺塔頭・福生院の主が「私の甥の嶋ノ庄屋殿(25歳)は近年羽振りが良い」と語る。(『多聞院日記』)
1567 永禄10 6月21日 「平群嶋城」に庄屋が乱入、一族らを殺害する。父「豊前守」は城を脱出。(『多聞院日記』)
1570 元亀元 4月29日 筒井方に加担するよう、十市城に働きかける。(『多聞院日記』)
1576 天正4 5月10日 筒井順慶が織田信長から大和の支配権を認められる。(『多聞院日記』)
1577 天正5 4月22日 春日社に石灯籠一基を奉納する。この頃、椿井城の修築完了か。
    10月10日 松永久秀が信貴山城に滅ぶ。(『多聞院日記』)
1578 天正6 4月27日 上月城攻めの援軍として筒井順慶とともに出陣する。
1579 天正7 10月22日 春日社の若宮祭に関して争論を起こす。(『春日文書』)
    11月26日 細井戸・南郷氏らと若宮祭の願主人(主催者)を務める。(『多聞院日記』)
1580 天正8 8月19日 織田信長が大和に破城令を出し、郡山城以外の城を破却させる。(『多聞院日記』)
1581 天正9 6月3日 筒井順慶が郡山城で吐田氏を謀殺。吐田領闕所一千石は天正11年10月に左近に与えられる。(『多聞院日記』)
    9月6日 伊賀の合戦で自軍に少々損害を出す。(『多聞院日記』)
1582 天正10 6月2日 織田信長が明智光秀の手により京都本能寺に滅ぶ。
    6月13日 羽柴秀吉が山崎で光秀を撃破、光秀は退却中に落命。
1583 天正11 5月10日 伊賀の合戦で筒井陣が夜襲を受け負傷する。(『多聞院日記』)
1584 天正12 8月11日 筒井順慶が病歿、跡を定次が嗣ぐ。(『多聞院日記』)
    10月15日 順慶の葬儀が行われ、幡持ちを務める。(『多聞院日記』)
1585 天正13 閏8月18日 筒井定次が伊賀に移される(『多聞院日記』)。左近も従い上野城下木興村に二千石を与えられたという(『伊乱記』等)が、大和に残ったとする説(『畠山家譜目録』)もある。
1588 天正16 2月7日 【参考】伊賀上野を去り持寶院に幽居する。(『和州諸将軍伝』)
1590 天正18 5月17日 小田原役に従軍か。「左近陣立ルス」と記録に見える。(『多聞院日記』)
1591 天正19 1月22日 豊臣秀長が病没、跡を秀保が嗣ぐ。(『多聞院日記』)
    4月27日 石田三成が近江・美濃の豊臣家蔵入地の代官となり、佐和山城を職務遂行の拠点とする。
1592 文禄元 4月10日 「北庵法印之息女嶋左近之内方、今江州サホ山ノ城ニアリ」と見え、左近夫妻が佐和山城下に居住している。(『多聞院日記』)
    10月18日 岳父北庵法印が左近の高麗陣(文禄役)からの無事帰還を祈り春日社に立願する。(『多聞院日記』)
1593 文禄2 3月27日 北庵法印が佐和山の娘のもとへ赴く。翌月二十五日南都へ帰還する。(『多聞院日記』)
    6月23日 左近の妻が父の世話をするため南都へ赴き、翌月十二日佐和山へ帰る。(『多聞院日記』)
    閏9月8日 西陣(文禄役)より佐和山へ帰還する。(『多聞院日記』)
1594 文禄3 2月23日 左近の妻が父北庵法印に迎えを出し、佐和山へ呼ぶ。(『多聞院日記』)
    4月7日 北庵法印が佐和山から南都へ戻る。(『多聞院日記』)
    4月16日 豊臣秀保が没し、大和大納言家が断絶する。(『多聞院日記』)
1595 文禄4 7月15日 豊臣秀次が秀吉の命により高野山で自害、程なく石田三成が江北四郡の領主として佐和山城に入部する。
    8月18日 石田三成らとともに大和平群郡岡崎村の検地奉行を務める。
1596 慶長元 1月14日 病を患い、北庵法印が南都から佐和山へ駆けつける。(『多聞院日記』)
1597 慶長2 −−− 【参考】この年、後に柳生利厳の側室となる末娘の珠が生まれる。(『正傳新陰流』)
1598 慶長3 8月18日 豊臣秀吉が病没する。
1599 慶長4 閏3月3日 前田利家が病没する。
    閏3月4日 石田三成が福島正則ら七将に襲われ、仲裁した徳川家康の命により奉行職を解かれて佐和山城へ退去する。
1600 慶長5 6月16日 徳川家康が会津の上杉征伐に出陣する。
    7月17日 毛利輝元が大坂城西ノ丸へ入り、豊臣秀頼を奉じて西軍の主将となる。
    7月25日 家康が三成の挙兵を知り、下野小山で評定を開き軍を返す。
    8月23日 東軍が織田秀信の守る岐阜城を落とす。
    9月14日 宇喜多勢とともに笠縫縄手において東軍方中村・有馬勢を計略により打ち破る(杭瀬川の戦い)
    9月15日 関ヶ原合戦において戦死。今なお生存説が根強く残る。

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