「元の黙阿弥」ということわざは誰でも一度や二度は耳にされたことと思いますが、実はこれは島左近にも少し関係がある逸話です。 |
元の黙阿弥 現在では「物事が振り出しに戻る」という意味でよく用いられる「元の黙阿弥(木阿弥)」ということわざがある。これは筒井順昭が南都林小路の外館(下屋敷)で病没する際、病床の枕元に集まった一族や家臣に伝えたとされる遺言に由来するものである。 左の写真はその舞台となった南都林小路の外館で、現在は南都(奈良市)から生駒市上町に移転した筒井順昭菩提寺・圓證寺の本堂として当時の姿そのままに再築保存されており、本堂の西側には順昭の遺骨を納めた立派な墓が、これまた当時の姿そのままに現存している(ともに国の重要文化財に指定)。 病床に臥す順昭の枕元に集められた家臣の中には島左近の名が見えるので、『和州諸将軍傳』の記述よりご紹介する。 筒井順昭は天文十九年夏頃より病を得て、南都林小路の外館において養生していた。七月七日の七夕祭りにこと寄せて、順昭は山田道安・慈明寺順國・福須美順弘・飯田頼直らの一族と、島左近・松倉右近・森好之の三老を密かに呼び寄せてこう語った。 「わしは民を慈しみ大和を治めてきた。また天下に旗を立てようとの志を日夜持ち続けてきたが、不幸にもこうして病を得た。この分なら来年の春夏までは、もはや生きてはいまい。藤勝(後の順慶)はまだ幼く、松永らはこの機に乗じて当家を滅ぼさんとするは必定である。もしそうなれば、わしはご先祖様に顔向けが出来ぬ。そこで今こうしてお前たちを集めて、筒井家を無事に保つ謀を聞こうと思う」 一同は口を閉じてしばし思慮をめぐらせていた。ややあって、順昭はこう続けた。 「ひとつ計策がある。もしわしが死ねば、密かにこの地に葬って追福をせず、三年間喪を隠せ。そして奈良角振町の鷹隼の祠近くに、黙阿弥という盲目の者がいる。この者はよくわしの所へやって来て、琴を奏でて我が病を慰めてくれたのだが、顔立ちや声色、年の頃もわしとよく似ておる。彼に事情を申し含めてわしの床に入れ置き、おまえたちも以前と変わらず給仕せよ。そして藤勝を守り立てて筒井の家を長く残してくれ。これ以外に遺言はない」 これを聞いて皆涙を流した。そして順昭の策に感心し、謹んでこれを承諾して退出した。 翌二十年六月二十日の辰の刻、順昭は林小路の外館において没した。享年二十八歳であった。四族三老らは遺言通りにその翌夜、順昭の遺骸を外館の奥に人知れず埋葬し、追善供養もせず黙阿弥法師を密かに呼び寄せた。そして彼に事情を伝え、順昭の身代わりとして外館に置き、毎日食膳を供えて四族三老らは従来通り給仕したのである。このことは四族三老と近習四、五人以外は麾下の諸士と言えども知る者はなく、順昭は病身ながらもまだ存命と思っていた。もちろん敵方にも知られなかったため、筒井家は攻め込まれることもなく無事に月日が過ぎていった。 この間、四族三老らの画策により筒井家は体勢を整え、天文二十一年六月に順昭の死を公表した。諸士は大いに驚き、弔問に訪れる者が門前市を為したという。そして筒井城近くにあった圓證寺を林小路に移し、新たに石塔を建てて供養した。 黙阿弥には多額の金銀や衣服を与え、角振町に帰した。これにより黙阿弥は元の盲目法師となった。今も大和のことわざに、物事に成功してまた昔の状態に戻ることを「元の黙阿弥」というのは、このことから起こったのである。 現在ではこの「元の黙阿弥」なることわざは、あまり良くない意味で使われている。しかし上記の故事で見る限り、そういうイメージはどこにもなく、いわばサクセス・ストーリーであろう。ここはひとつ、「元の黙阿弥」なることわざの使い方を、今一度考え直してみても良いのではないだろうか。 ところで、筒井順昭の没日時は、天文十九(1550)年六月二十日とするものと、天文二十(1551)年六月二十日とする二説がある。上記『和州諸将軍傳』では天文二十年説を採るが、記述中に年時の計算が合わない箇所があり、また圓證寺に残る順昭の墓には「天文十九年六月廿日」と記されていることから(=写真)、当サイトでは天文十九年没説を採ることとしたい。なお、圓證寺では毎年六月二十日に順昭公忌が行われている。【→ 圓證寺公式HP】 ※文責:Masa 資料提供:圓證寺 2002年4月6日作成 本稿の無断転載及び引用を禁じます。
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