北庵法印と「亀山」(2)

左近が一時関一政の配下にいたのではないかとする説の根拠となる『多聞院日記』天正十八年五月十七日条の「亀山」の記述。さて、本当に「亀山」は伊勢亀山を指すのでしょうか。
※本稿は今後の調査研究により加筆または訂正されることがあります。


「龜山」は丹波亀山

 まず第一に、北庵と中坊治部卿が同一人物であるならば、なぜ「北庵法印」「中坊法印」「中治法印」などと記述が異なるのかという点である。これについては「北庵」の初出から天正十八年六月廿八日までの両者の表記を順に抜き出すと次のようになる。

「北庵法印」 (天正十七年十二月廿九日条・「北庵法印」初出)
「治法印」 (天正十八年正月六日条)
「北庵法印」 (同正月廿四日/二月六・十・廿七日/三月九日条)
「北法印」 (同五月十三日条)
「北庵法印」 (同五月十七日条・箱を二つ預けて「亀山」へ)
「中坊法印」 (同六月十二・廿六日条、廿五日に丹波から戻る)
「中治法印」 (同六月廿七日条・箱を二つ引き取る)
「北庵法印」 (同六月廿八日条〜)

 ご覧の通り実にまちまちに書かれており、普通に読んでいれば別人と感じられるのも不思議ではない。しかしこれには他にも例がある。
 多聞院英俊の親友に金勝院光祐(明禅房)なる人物がいるが、この人物についての表記も時期を問わず「金勝院」「明禅房」「金勝院光祐」「光祐」などと様々な書かれ方をされており、英俊は名前の表記については無頓着だった様子が窺われる。したがって、この点についてはさほど気にする必要はないかと思われる。ただし「治部卿」にはもう一人「檜皮屋(院)治部卿」(好繼)なる学侶が存在するため、「治部卿」とのみ記述されている場合は注意が必要である。なお、この人物は文禄二年正月五日に死去しており、北庵とは別人であることは明らかである。

 さて、瓢箪から駒というわけでもないが、ここで思わぬ副産物(?)が得られた。今一度北庵の行動に注目すると、英俊に「明日亀山へ行く」と伝えた五月十七日以後南都へは戻っておらず、六月廿八日条で英俊が「丹後橋立ノ文殊へ參詣様、浦山〃〃」と記していることから、北庵はこの間丹後天橋立へ立ち寄ったようである。こうなると、必然的に「龜山」は伊勢ではなく丹波亀山を指すと考えられよう。なぜなら伊勢亀山は南都から見てこれらのコースとはまったく逆の方向に位置するからである。
 ということは当時左近が伊勢亀山に住んでいたとも、一時的に蒲生氏郷や関一政の配下となっていたとも言い得る根拠は存在しないことになる。
 加えて『蓮成院日記』天正十七年九月条に

「一 諸大名衆在京付、女中衆悉三年間可有在京之由被仰出旨也、就其大納言殿御上并 群山大名衆も壹万石之知行衆者各以女中方迄可被在京旨口遊也、各雑左成由也、」

と見える。「群山大名衆」とは郡山すなわち元筒井氏配下(この時は筒井氏は伊賀移封後で郡山は秀長の管轄)の国衆を指すとみられるが、秀吉は「壹万石之知行衆者各以女中方迄可被在京」つまり「郡山で一万石(以上)の知行を持つ者は妻ともども京都に住むように」と指示しているのである。
 前段で「三年間」と期限を付けていることから「群(郡)山大名衆」がこれに従ったとすると、問題の天正十八年当時には左近夫妻は京都にいた可能性が高い。

 もしそうならば「亀山」云々の際には左近の妻は京都から奈良の父北庵の元へ行ったことになり、英俊の「一段孝行」の記述は納得できる。さらにこの時期から三年後の天正二十(文禄元)年四月十日条に見える「今江州サホ山ノ城ニアリ」の「今」の文字がわざわざ付けられた理由も説明が付く。

 つまり左近夫妻は天正二十(文禄元)年四月十日から少し前に、京都から佐和山へ移ったものと考えたい。


「北庵」の由来

 第二に、「北庵法印」なる名はいつから、またなぜそのように呼ばれるようになったかである。時期については北庵と中坊治部卿が同一人物とするならば、中坊治部卿が一乗院家より法印位に任ぜられたのを機にそう呼ばれ始めたと考えるのが、「北庵法印」の初出時期からみても妥当かと思われる。おそらくこの呼び名は英俊による愛称的なものと考えて良く、そう呼んだ理由としては通称北庵なる屋敷があったか、あるいは敷地内の北にある屋敷に住んでいた等が考えられよう。また『蓮成院記録』の天正十七年九月条末尾に

「自中坊今度於中坊御殿新造儀付、竹釘貳石分事、供目代邊マテ申來間、(後略)

と見え、中坊屋敷が新造された様子であることから、この際に治部卿の住居も新改築された可能性がある。
 理由の一つについては『多聞院日記』天正十七年十一月朔日条の記述が参考になるかと思われる。

(前略) 法眼京下之間夕飯申入、金勝院請了、種〃雑談在之、醫士ノ師匠一鴎軒トテ實名ハ宗庸ト云五十九才、無比類名醫賢仁也云〃、今度京都ノ醫者六人法印ニ被任了、其随一也、法印ニナレハ無ハ院号不叶、依之一鴎軒ハ春松院ト号ス、先日京上ノ時被預ツル醫書筥二ツ被返了、宗庸ヨリ醫士ノ印可ヲ取タル由被申了、」

 これは中坊治部卿法眼(当時)の医術の師・一鴎軒に関して自ら語ったものだが、「法印ニナレハ無ハ院号不叶、依之一鴎軒ハ春松院ト号ス」すなわち法印位に任ぜられたからには院号が必要であり、一鴎軒はこれを機に春松院と号したとのことである。法印位は学侶以外では最高位と言って良く、かつて大和一国を支配した官符衆徒の頭領たる筒井順慶もまた法印位であった。中坊治部卿が法印位転任を機に院号を称した記述は認められないが、その代わりに「北庵」と号した(呼ばれた)のではないかと考えたい。

 なお、「北庵」の住居に関する記述がわずかながら見られたので参考までに挙げておく。

「北庵法印之宿北向ニテ暗サムキ無術之由被申間寛円へ詫テ畠少借テ南面ニ沙汰之、一円自是造作了、二百七十文ノ入用也、(後略)(『多聞院日記』天正二十年正月廿七日条)

 ご覧の通り当初宿は北向きだったが、暗くて寒いので南向きに建て替えたようである。しかし宿がどこにあったかを匂わせる記述は見当たらない。ちなみに中坊屋敷は当時奈良町の椿井(現奈良市椿井町)にあったが、北庵がこの屋敷にいたかどうかは不明である。


北庵と中坊治部卿

 第三に、箱を預けた人物と引き取りに来た人物が違う点である。考え方によっては北庵と中坊治部卿が仮に同門の医者同士で親しい関係にあった場合、北庵の預けた箱を中坊治部卿が引き取っても特に不都合はないのではないかとも受け取れよう。これについては同日記天正十九年五月朔日条に

(前略) 北庵法印ヨリ被預置シフカミツヽミノ小箱取二來、預リ状モ不來、彼方ノ状モ無之間、人ヲ付テ渡之了、及暮一札來此中ニアリ、」

と見え、英俊は預かり物に対して「預リ状」を渡すなどきっちりとした対応をしていることがわかる。つまり北庵の預けた物を中坊治部卿が簡単に受け取れたとは考えにくいのである。

 以上のことから、北庵法印と中坊治部卿法印は同一人物と考えたい。そうすると中坊氏は柳生氏と元は同族であることから、左近が柳生氏と早い時期から昵懇であったとされることや末娘・珠が柳生兵庫介利厳の側室となったこととの関連も、今一度注目し直すべきであろう。左近が柳生氏との関係から、同族の中坊治部卿の娘を妻にした可能性も考えられるからである。
 また、北庵法印を興福寺大乗院に属す医師とする文献が多いが、北庵と中坊治部卿が同一人物とする限りにおいて、前述の通り中坊治部卿は一乗院家から法印位転任の沙汰を受けており、厳密に言うならば一乗院方の医師とすべきであろう。ただこの頃には以前のような大乗院方と一乗院方の対立は見られないため、興福寺内においても明確な区別はなされていなかったものとみられる。当サイトが北庵を単に「興福寺に属す医師」とするのはこの理由によるものである。

※文責:Masa 2002年8月6日作成(10月12日加筆再編集) 本稿の無断転載及び引用を禁じます。


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