若年時の島左近について大きく関係があるとみられている「嶋ノ庄屋」の父「豊前守」の存在を、先日信頼できる史料で確認しましたのでご紹介したいと思います。 |
「豊前守」の正体 以前に 「庄屋」は左近か でも述べた通り、左近と近い関係があると考えられる「嶋ノ庄屋」と「豊前守」については、『多聞院日記』に次のような記述が見えることが知られている。しかし同日記にはこれ以外に記述はなく、現時点においても両者の人物像は不明である。 「福生院云、我母八十四才也。嶋ノ庄屋殿近年武者也。當年廿五才我カヲヰ也ト」(永禄九年五月廿六日条) 「一、今朝平郡(群)嶋城ヘ庄屋入テ、継母・同男十五才ヲ始テ、至二才五人并御乳一人・南夫婦合九人令生害、親父豊前方ハ立出候了、中にも持寶院・福生院弟子ノ兒既ニ入室、今度乱ニ在田舎之處ニ生害、三ヶ大犯言悟道断曲事越常篇、中〃無是非次第也、追日凶事浅猿〃〃」(永禄十年六月廿一日条) 「庄屋乱入事件」の起きた永禄十年(一五六七)は筒井氏と松永氏の抗争の真っ最中で、この年の十月十日には東大寺大仏殿が戦火によって焼けている。問題の「庄屋」とその父「豊前守」については今まで他に確かな記録には見えず、『平群町史』で執筆者の永島福太郎先生が「この庄屋が島左近本人であろう」と推測されるにとどまっていた。 『諸系図纂』では豊前守を左近の父とし、興福寺持寶院を建立したと記されているが、確証がないため従来さほど重要視はされていなかったようである。 しかし今回、別件で法隆寺文書を調査していたところ、永禄三年三月三日付で「嶋清国」なる人物が湯屋坊買得の際の契約状を残しているの見つけた。内容はざっと以下の通りである。 |
就 湯屋坊買得申契約条々 一 参拾貫文代銭内当年仁貳拾貫文渡申相勺拾貫文来年八月中仁相渡可申事 一 此方未雖致買得候永代学侶中坊主代々陶置可申事 一 極堂衆之躰者住持掛之儀一向不可叶事 一 東方可有築地付大湯屋之蜂起以下為四■東方仁大湯屋并出入戸口可被立事 一 坊舎為外聞一角可有興隆事 右条々契約之一書如件 永禄三庚申 嶋豊前守清國(花押) 三月三日 (※文面は継続調査中につき、一部の文字が変更される場合があります) |
署名に見える「嶋豊前守清國(国)」なる人物が、永禄年間の「平群嶋城」の城主であり、また「嶋ノ庄屋」の父であると見て間違いないものと考えられる。 左近の諱は「清興」であり、豊前守清国と大いに関係がありそうである。庄屋は実子か養子かは不明ながらも豊前守の子であり、もし庄屋が若き日の左近であれば、左近清興の父は豊前守清国ということになる。書状は活字化されていないため内容の詳細は継続調査中だが、従来謎であった「豊前守」の存在と諱を書状で確認できたのは大きく、左近の研究が一歩進む可能性のある発見と言って良いかと思う。 こうなってくると、やはり島氏と平群谷北部の国民・曾歩々々氏との関係を今一度調べ直す必要があろう。天文年間に断絶または島氏に一体化したと考えられている曾歩々々氏の通字は「清」の字であり、天文年間には清繁の存在が確認されているからである。 永禄三年といえば松永久秀が大和へ侵入した翌年で、当時左近本人はともかく、島氏は筒井氏方ではなく松永方の支配下にあったことがわかってきているが、これについては今回は触れず、稿を改めて近日中に述べさせていただくことにする。 ※文書解読に際しては二上山博物館・金松誠氏にご協力を頂きました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。 ※文責:Masa 2004年6月17日作成 本稿の無断転載及び引用を禁じます。 |