戦国時代の梟雄と呼ばれ、三好氏の重臣から台頭して畿内での一大勢力となり、やがては信長に背いて滅び去った松永久秀。後世における彼の人物評は決して芳しいとは言えませんが、実際どういう人物だったのでしょうか。このコンテンツでは彼の生涯を詳しく追ってみます。 |
松永久秀の出自 「略歴」の稿でも述べたが、松永久秀の出自・出生や前半生はよくわかっていない。出自については一般には山城西岡の生まれとするものが多いようであるが、真偽はともかく久秀および松永氏の出自に触れた記録として、参考までに以下にひとつ掲げる。 「松永花遁の家は、松永弾正久秀に出づ。久秀姓は藤原、その先世は蓋し筑前の人なり。家系の詳細は、今得て詳にすべからざるも、傳ふる所によれば、源平氏の時代に著はれたる鎭西の名家原田種直の一族にして、種直が太宰少貳を以て平家の號令を奉じ、九州二嶋の政務を管する頃には、松永某太宰府の属員たり。安徳天皇の西遷に方り、宗家を同じく王事に勤め、後ち源氏に降りて世々筑前に居り、元寇の役に功あり。下って南北朝以降戦國の世には、豊後の大友氏に隷し、時に或は長門の大内氏に属し、猶ほ九州の一武士なりしと云ふ。久秀此族より出で、足利幕府末葉の執事職三好筑前守長慶に仕へ、文書の才を以て祐筆となり、最も親信を受け、漸次登用せられて京都の所司代となり、長慶老を告げて本國阿波に歸るに及び、代はりて自ら足利氏の執事職となり、弾正忠從五位下を受領し、久しく政ネを握りしが、織田信長起るに及び、之と事を搆へ、一旦居る所の西京多門城を納れて降りたるも、ふたヽび懽を失し、和州志貴城に據りて兵を交へ、信長の子信忠攻圍する所となり、天正五年十月十日、防戰力盡るに及び、自ら火を城砦に放ち、自殺す。京都の日蓮宗本國寺に墓あり。法號を妙久寺殿祐雪大居士といふ。」 これは筑前博多の松永花遁宗助家に関する記録であるが、これによると久秀は太宰府の属員である松永氏の出自とされる。記録によると、久秀の子久通に幼名一丸なる子がおり、乳母とともに遠く筑前に難を逃れて民間に隠れ住んだという。一丸は長じて彦兵衛と称し博多で質店を開業したが、この彦兵衛を家祖とする八代目の末裔が松永花遁宗助とある。 なお、文中に見える「京都本國寺の墓」は、旧久秀京都屋敷跡であった京都市下京区の妙恵会墓地に現存するが、伝えるところによると久秀は本國寺塔頭戒善院の檀徒で、松永家先祖の供養のため天正年間に土地を寄進したという。 墓は久秀・久通と法名「法賢院宗秀居士」なる人物(不詳)との合葬墓碑となっており、かなり後になって建立されたものとみられ、その位置は江戸時代の高名な儒学者で一説に曾孫と伝える松永尺五家墓地の一角にある。 松永久秀の人物像 久秀には多くのエピソードが残されている。「三好義興を暗殺した」「将軍義輝を殺した」「讒言により三好長慶に弟安宅冬康を殺させた」「奈良東大寺の大仏殿を焼いた」etc・・・。しかしこれらには確たる証拠はなく、実際そうしたことを行ったかどうかはわからない。とは言え、こういった記録を残されているということは、少なくとも記録者側の立場にとって彼が「悪人」として映っていたことは否定できない。 久秀は三好長慶の祐筆より台頭したという。彼には甚介(助)長頼という弟の存在が知られており、長頼は三好家の丹波方面司令官として活躍していたことから、当初は弟の方が三好家に重用されていたのかもしれない。 久秀は永禄二年八月以降、その主な活動の場を大和に移した。信貴山城(平群町)を修築して本拠とし、さらに南都(奈良)に多聞山城を築き子の久通を入れて大和の二元支配を行った。一時織田信長から大和支配を許されるほどになったものの、結局は背いて天正五年(1577)十月十日、信貴山城に滅ぶ。 前半生不明の久秀が確かな記録に登場するのは、天文十一年(1542)十一月二十六日のことである。 「近(今)般三好源三郎當國可亂入歟之由種〃造意、則山城ニテ松長(永)弾正已下人數近日罷越了、仍爲調伏被修之了」(『多聞院日記』同日条) この年の三月には、大和へ侵入して一部を支配していた木沢長政が河内太平寺に敗死しており、八月には筒井順昭が畠山稙長の松浦氏討伐に加勢して高屋城に入るなど、大和国人衆の動きが激しい時期であった。三好氏に当時大和侵入の意志があったかどうかは不明だが、「弾正已下人數近日罷越了」と見えるように、久秀は当時既に弾正と称していて三好家中で一部隊を率いる地位にあったことがわかる。 当コンテンツ「松永久秀の生涯」においては、これをもって「戦国武将・松永久秀」の出現とし、出来るだけ信憑性の高い史料を中心に用いてその後の彼の行動を追い、その素顔に迫ってみたい。 |