松永久秀と母の墓

松永久秀の墓は現在少なくとも三ヶ所にあることがわかっています。ここでは久秀の母・林貞禅尼の墓と合わせて画像でご紹介します。


松永久秀の墓

 久秀の墓については、彼の京都屋敷跡と言われる下京区の妙恵会総墓地に久秀父子の合葬墓碑があり(写真上左)、法名は久秀「妙久寺殿祐雪大居士」、久通「高岳院久通居士」とされている。また奈良県王寺町の達磨寺には久秀の墓と伝えられる小さな卵塔がある(写真上中央)。銘は風化して読めないが、寺の記録では「松永弾正久秀墓 天正五年十月十日」とあり、これは筒井順慶が懇ろに葬ったとも、あるいは久秀遺臣の入江大五郎・松永大次郎が葬ったとも伝えられている。さらに信貴山城近くの三郷町にも地元の方が守り続けている久秀の供養墓がある(写真上右)

久秀の母・林貞禅尼の墓  さてこちらは信貴山城の南約3km、大阪府柏原市雁多尾畑(かりんどばた)の光徳寺にある久秀母の墓である。この一風変わった地名は、天永四(1113)年の南都北嶺の戦いで七堂伽藍が焼失、雁林堂(かりんどう)だけが残ったことに由来するという伝承がある。
 光徳寺「祠堂帳」(過去帳に相当)によると

「林貞禅尼 和州信貴城主 松永弾正少弼母儀 右為遠忌之志黄金五枚寄付因茲毎年八月十二日令修讀経之由見■ 松谷伝 傳承記 元亀三壬申年八月十二日卒」

 とあり、久秀に先立つこと五年の元亀三(1572)年八月十二日に没していた事がわかる。墓の大きさは天地75cmと小さく、どことなく一抹の淋しさを漂わせている。
 地元の伝承では久秀の母・法名林貞禅尼は息子の奔放な生活に耐えられず、信貴山城を出て光徳寺に住み仏道に没頭したという薄幸の女性であったそうな。光徳寺のお話によると、後に墓を改葬した際に上部の墓石(水輪)が安定せず何度も崩れたとのことで、現在はセメントで補強されているのが写真でおわかり頂けると思う。彼女は墓を動かさずそのまま静かに眠らせて欲しかったのかもしれない。

久秀墓と伝わる舟型名号碑  あまり知られてはいないが、久秀生存伝説もある。それによると落城間際に信貴山城から抜け出した久秀は、信貴山城の出城・立野城(現奈良県三郷町城山台)の立野氏の庇護を受け、同村に隠れ住んだという。三郷町の坂根墓地には中央に「南無阿弥陀佛」と太字で書かれた花崗岩製の舟型名号碑(=写真)があり、地元ではこれを久秀の供養墓と言い伝えているとのことだが、同墓地にある説明文には久秀の文字は見られない。その日付は天正八年四月二十四日とあり、これが事実なら久秀は信貴山落城後二年半ほど生き延びたことになる。
 謀将久秀のこと、ひょっとするとここに眠っているのかもと考えたいところではある。しかし、『多聞院日記』によると久秀の首は信貴山落城後に安土城に送られ確認されており、やはり生存していたとするには無理があるようである。
 
三郷町の墓にある解説板  三郷町では久秀を偲んで有志が集まり、現在も祭祀を絶やさず続けているという。この墓を建てられた方に直接お話を伺ったところ、焼けた信貴山城跡に残った墓石をこの地へ移し、久秀を偲んで墓を建てたそうである。史上に悪評が高くとも地元では慕われている例が多いが、久秀も例に漏れてはいない。記録には見えないようだが、領民には善政を敷いていたのであろうか。画像はその傍らに立てられている案内板だが、文面をお読み頂きたい(クリックで拡大)。

 久秀、以て瞑すべし。
 
※文責:Masa 「平群谷の驍将・島左近」中の同名稿に加筆 2004年12月7日作成 本稿の無断転載及び引用を禁じます。

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