松永久秀年表 No.4
元亀元(1570)年〜天正元(1573)年
* 印は閏月を示します。
西暦和暦日付事績
1570 元亀元 2/22 筒井党からの人質(井戸良弘の娘・松蔵権介の子)を殺し井戸城の際にて串刺しにする。また筒井八条庄屋の子を殺す。
    2/24 久通・竹内秀勝が信長の在京中に出仕すべく近江へ出迎えに行く。
    3/28 この日までに井戸城を落とす。良弘は南方へ逃れる。
    4/5 井戸城を破却する。
    4/23 永禄より元亀に改元される。
    4/30 信長に従い越前朝倉氏攻めに赴くが浅井長政が背き退却、この日京都まで戻る。
    5/12 竹内秀勝とともに大和へ戻る。
    5/23 久通とともに春日社に詣でる。大神楽などが催される。
    6/6 父子で十市城方面へ向かうが調略が不首尾に終わり、転じて福住城に押し寄せる。
    6/14 堀池・平等坊・室・豊井ら郡山衆を生害させる。郡山を襲い散郷を焼き払う。
    6/26 久通とともに郡山から多聞山城に戻る。
    7/25 三好三人衆が河内に侵入とのことで久通とともに急遽信貴山城へ出陣する。
    7/27 久秀不在の間に筒井順慶が五百の兵を率いて十市城に入る。久秀父子は八千程の兵を率いて河内へ向かう。また信長に対抗する三好三人衆らが雑賀衆を誘い、摂津野田・福島に砦を構築、天満ノ森に布陣する。
    7/29 久秀方の箸尾氏が細井戸城を落とす。
    8/9 三好三人衆が淡路衆・安宅衆千五百人を率いて摂津尼崎に上陸、伊丹城を攻める。
    8/20 信長に従って三好三人衆と河内で戦っている隙に筒井勢が古市郷を焼き高樋山に城を築く。順慶は福住に入る。
    8/22 天王寺と遠里小野の境に陣取った三好三人衆勢一万に対峙して久秀は河内高安に、竹内秀勝は大窪に陣取る。信長が京都に入る。
    8/23 竹内秀勝が引き返して筒井衆と戦い、高樋城まで追い込む。中坊衆に少々負傷者が出る。
    9/8 三好義継とともに海老江城を落とし、野田に迫る。
    9/12 石山本願寺が三好三人衆と同盟を結び、野田・福島の砦を攻める織田信長に対して挙兵、石山合戦始まる。
1571 元亀2 1/4 摂津より多聞山城へ帰還する。
    1/5 多聞山城にてこの日より国人衆の礼を受ける。
    1/6 寺門衆が多聞山城へ礼に赴く。
    1/21 興福寺一臈法印の死去(1/14)につき、寺門の人事について相談を受ける。
    2/8 竹内秀勝が美濃から戻る。
    3/5 柳本表へ竹内秀勝を大将として出陣させる。
    3/11 多聞山城で春日社祠官中東大輔時宣父子からの訴え事を聞く。
    3/19 花がほとんど落ちたため、花見はもとより山の木を折り取ることを禁止する通達を出す。
    3/21 興福寺修南院に絡む院家の相続につき報告を受ける。
    4/28 小五月銭について興福寺大乗院より斡旋を依頼される。
    5/2 小目代慶賢の改易についての訴えを聞く。
    5/6 久通・竹内秀勝が多聞山城より出陣する。
    5/9 窪城へ押し寄せる。
    5/11 窪城から陣を払う。
    5/12 久通とともに安見右近攻撃に河内交野へ出陣する。また武田信玄の臣小幡信実が久秀の臣岡周防守へ書状を発す。
    5/17 信長に背き、武田信玄に同盟を持ちかける。信玄はこれを受ける。
    5/19 武田信玄が岡周防守へ久秀を別格として処遇する旨の書状を発す。
    5/27 久通とともに河内交野より多聞山城へ戻る。
    5/30 久通とともに信長に対して出陣する。三好三人衆が河内高屋城に畠山昭高を攻める。
    6/9 河内高屋表で合戦が日々行われる。
    6/11 河内高屋表から兵を引き、久秀勢は藤井寺へ入る。足利義昭が養女を筒井順慶に嫁がせる。中坊駿河守が筒井順慶に帰参する。
    6/12 箸尾為綱が久秀に背き、十市氏(松永派)と南柿森で戦う。
    7/3 藤井寺から法隆寺辺りへ兵を引く。久通は多聞山城へ帰城する。
    7/4 箸尾表から兵を引き、法隆寺・龍田に布陣する。また吐山・簀川氏が守っていた郡山の付城で吐山氏が筒井方に寝返り簀川衆を討つ。
    7/5 筒井勢が櫟本の付城を落とし、久秀勢は筒井城へ入る。
    7/15 三好義継とともに信長方の和田惟政攻めに摂津芥川へ出陣すべく画策する。
    7/18 箸尾勢が川合の付城を攻めるが失敗する。
    7/22 画策していた三好三人衆・義継との摂津芥川城攻めを断念する。
    8/2 筒井方が辰市に城を築く。多聞山城より辰市へ兵を出すが合戦には到らず戻る。
    8/4 辰市城へ三好義継勢とともに攻め掛かるが大敗、多数の討死衆を出し多聞山城へ逃れる。(辰市の戦い)
    8/5 越智氏が新賀に城を築き、箸尾為綱は森屋城を攻めて十市郷を侵害するとの風聞が流れる。
    8/6 順慶に筒井城を明け渡し、信貴山城へ入る。順慶は高田・野垣内・番条・森屋蔵堂城も奪回する。
    8/10 超昇寺氏が寝返り、筒井方の木津氏に応じる。
    8/14 越智・箸尾氏が十市氏(久秀派)を攻め、十市郷を略取する。
    9/22 竹内秀勝が河内若江城にて没す。
    10/10 山城槙島城を攻撃する。
    10/14 山城木津で苅田を行い、興福寺領の田を焼き払う。
    12/19 筒井氏が総勢を出して十市城へ押し寄せる。
1572 元亀3 *1/20 奈良で早暁に大地震が起こる。
    2/15 昨年の辰市合戦討死衆を弔う大念仏に敵味方とも多数が参詣する。
    3/11 久秀の重臣渡辺出雲守が東大寺で、妻は法花寺で剃髪、高野山へ向かう途中に番条(大和郡山市)で捕らえられる。
    3/16 順慶・箸尾為綱・岡某と戦う。
    3/26 十市氏の内久秀・順慶両派で進められていた和睦が破れる。
    4/16 佐久間・柴田・明智はじめ織田方の軍勢二万余が河内へ出陣、久秀の軍勢を私市城に攻囲する。
    4/29 大安寺の門付近で多聞山衆二百ほどと筒井足軽衆が戦う。
    5/5 信長の先陣が西京に着陣する。山の木が多数枯れ、多聞院英俊は「武家の入国」に不安を募らせる。
    5/7 西京の信長勢が数万に達する。明日打ち入りとのことで、それを阻止すべく種々の調停を試みる。
    5/8 奈良より銀子320枚、興福寺より100枚、東大寺より50枚を出し、信長勢との調停が成立する。
    5/9 順慶は南大門に、信長軍は多聞山の北を包囲して布陣するが、午後には陣を払う。
    5/17 足利義昭が久秀の重臣岡周防守に武田信玄の上洛を報じて協力を要請する。
    6/2 奈良で大地震が二度起こる。
    7/10 十市後室・御料の二人が久秀方の柳本城に入る。
    7/29 山城へ出陣する。
    8/19 柳本城において森本左京が自害、伊源二郎らが捕らえられる。
    8/27 山城木津周辺へ手勢を派遣し苅田を強行する。
    8/28 木津表から兵を引き上げる。
    11/19 片岡近辺に出て二日にわたって放火する。
    11/22 多聞山衆が今市へ出て放火するが筒井衆に追い返される。
    12/22 武田信玄が遠江三方ヶ原で徳川家康と信長の援軍を撃破、織田方平手汎秀は伊場で戦死、家康は浜松城に逃げ帰る。(三方ヶ原の戦い)
1573 天正元 1/8 名刀・不動国行を岐阜城の織田信長に献上し恭順の意を表す。
    3/30 将軍義昭・三好三人衆らとともに、信長方京都所司代村井貞勝の屋敷を包囲する。
    4/7 信長が名代の細川藤孝らを将軍義昭のもとに派遣し正親町天皇からの和睦勧告を伝え、義昭もこれを認める。
    4/12 武田信玄が労咳のため甲斐への帰国途中に伊那駒場で病歿。享年53歳。
    4/28 信長と義昭が起請文を交わし、正式に和睦する。
    6/13 義昭が信長との盟を破って挙兵を企て、兵糧米の送付を毛利輝元に依頼する。
    7月 信長軍が山城の所々を焼き、多聞山城周辺にも乱入する。
    7/3 義昭が三淵藤英を二条城に置き、再び信長に反旗を翻し宇治槇島城に籠もる。
    7/18 信長が義昭を槇島城に攻める。義昭は子の義尋を人質として渡し降伏、山城枇杷庄へ移る。これにより室町幕府滅亡。
    7/20 義昭が河内津田を経て若江城の三好義継のもとへ身を移す。
    8/2 信長が長岡(細川)藤孝・三淵藤英をして石成友通(三好三人衆)を淀城に攻め滅ぼす。
    11/5 義昭が河内若江城から和泉堺へ移る。
    11/9 義昭が紀伊由良興国寺へ移るべく和泉堺を発つ。
    11/10 信長が河内若江城に佐久間信盛を差し向け、三好義継を攻める。『佐久間軍記』には「松永久秀・筒井順慶先陣若江城ヲセム」と見える。
    11/16 三好義継が家老の若江三人衆の裏切りに遭い若江城で自害、三好家崩壊。
    12/26 再び信長に降り、多聞山城を明け渡す。
BACK  INDEX  NEXT